2019.02.13

またはてなブログから「振り返りませんか?」とメールが来て、まんまと読み返してこうして戻ってきた。


「振り返りませんか?」とうながされたその時々で振り返ってはまた書くというのをこれからも続けていくのだろうか。なんにせよ継続というのはそれだけでいいものだなと思う。まだ奥さんが奥さんですらない、それどころか好きな人でもそんなになかったというか生活の中にその人はまったく入り込んでいなかった時期からこのブログは続いていて、そのころの文章を読み返すと何世代か前の文明を掘り起こしているような気持ちになった。なんというか、奥さんと一緒になれてよかったね、としみじみと思う。


それでもいまと言っていることはさほど変わっていないし、同じようなことを何度でも何度でも書いていて、こいつは変わらないな、ほんと変わんないな大丈夫か、と呆れた。面白いのは当時あたまのなかでぐちゃぐちゃだったものをそのままワーッと書き出したような文章が、そのとき読み返すとぐちゃぐちゃなままだったのがいま読むと案外文章の体をなしていて「え、俺やるじゃん、いい文章書くじゃん」と思えたことだった。


総じて僕の文章は父の書いたものによく似ていた。意識せずとも文体まで似ているというのはちょっと恐ろしくもある。僕は読むときあたまのなかで音読をしているというか、とにかく文字を音声に変換してそれを聴くというような作業をしているようで、文体とは僕にとってどんな声音に変換されるかということだった。たとえば保坂和志保坂和志本人のままの声で読むけれど、柴崎友香英米文学の翻訳を読むときと同じような声というか持ち主のはっきりしない音として読まれる。阿久津隆『読書の日記』を読んだときにびっくりしたのはまるで自分の書いた文章のようだったからで、そのくらい僕が自分の文章を読むときの音とよく似ていた。それ以上に僕が僕を読むときに文字が変換される声音は父のそれとそっくりだ、それは僕の肉声とも父の肉声とも似ていない。


父と本屋に行くと漫画や雑誌でない本を必ず一冊買ってもらえた。なんだかんだ親の顔色というのはうかがうものだし、自分では自分の意志で自由気ままに本を選んでいるつもりでも、けっこう親の好き嫌いの範疇で本を選んでしまうものだ、そう父は言っていたし、本当にその通りで実家を出て十年ちかく経ったいま僕の本棚は実家のそれとはまったく似ていない。実家の本棚にはなじみそうにない本がこんなにもある。独り立ちしたときにどれだけ自分の選ぶ本が親の影響下にあったかに気がつくと思うよ、となぜだか嬉しそうに話していた父は、今の僕の本棚を見ても、ウゲッとかふーんみたいな感想しか持たないかもしれない。独立前の本棚から、そこまで遠くに行けたことが嬉しい。


父が読みそうにもない本を読みに読んで、それでも自分の書く文章は似たままであるというのがおかしいような怖いような心持ちにさせるが、きょう書いたこの文章を読み返してもどこも父には似ていない。昨年だか一昨年までは似ていた、ということだろうか。この文章も来年読み返したら父の文章を思い出させるのだろうか。一年後の「振り返りませんか?」のメールが楽しみだ。