2018.03.09

きょうで今の家からの通勤は最後だねえ。
今朝の電車で奥さんがそう言って、確かにそうだったので確かにそうだなあと思った。
いま使っている路線は車両が古いため通路幅が絶妙に狭く、わりと嫌いだったので嬉しい。

奥さんの活躍で冷蔵庫も順調に空に近づき、各種手続きも優秀な僕がてきぱきと終わらせた。
こう書いておけば「あのころ俺はてきぱきしていたのだ」と読み返した僕は勘違いするだろうが、実際の僕はきのう冷たい雨が降りしきるなか左手にスーツケース、右手に亀、傘を持つ手はもうない。そんなかわいそうな状況のなか、泣きそうになりながらもけなげに新居や区役所やもろもろでやらなくてはいけないことをなんとか済ませて寝込んだ。

このときばかりは「俺にばかり引越しの面倒なことを任せっきりにしちゃってさ!」とやさぐれそうにもなったけれど、そもそも半分は好きで引き受けたことだし、冷蔵庫事情に関しては奥さんに任せきりだし、こういうのは持ちつ持たれつなのだ。
奥さんはぐったりした僕を見かねて足をもんでくれたりお風呂に湯水を溜めてくれた。
これでは僕たちの持ちつ持たれつの関係のバランスは、むしろ奥さんからしてもらったことのほうが多くなってしまったようにも思う。

 

話は少し変わるような変わらないようななのだけれど、人間関係というのはお互いにお互いをちょっとバカにしているくらいが健康なのかもしれない。そのうえで自分のバカさにも気がついているとなおいい。
今回の引越しになぞらえていくと、奥さんは僕が考えもなしに直前まで必要そうなものを段ボールに詰め込んでしまうことに呆れているし、僕は引越しに関わる対外交渉を全部やらされている気持ちになって不服に思うところがある。
このようにお互いに「この人、ちょっとダメだな」と思っているほうが、「この人よりはマシにやれる」という自信につながり、「この人の分もやってあげよう」と行動になってあらわれる。
うっかり相手のほうが得意なことまでやってしまうと「なんでそんなやり方するの」とバカにされてムッとするけれど、ムッとするとき同じようにこちらもまた相手をバカにしているのだと気がつけるとどうでもよくなってくる。

そもそも人をバカにするのは、自分は自分の手持ちのものさしにそってものごとを理解しているに過ぎないという事実に盲目になっているからなのだ。
人それぞれものごとを判断し行動するやり方は異なる。
このことに気がつかないまま、自分のものさしからみて無能な人を無能と判断するのは、自分もまた相手のものさしからみたら無能である可能性を考えていない。
こういうのは言うのは簡単だが実際に自分の物差しを相対化して暮らしていくのは難しい。
そこで人にバカにされる効用というのが出てくる。
人にバカにされてムッとするとき「てめえのものさしで俺を測りやがって」という思いが湧きあがっている。そしてそのつど「それはこちらも同じであったな」と寛大な気づきが訪れる。
ここで気がつけないやつのことを本当の馬鹿と呼ぶのだと僕は思う。

お互いに「バカだなあ」と思いながらもそれを断罪するのではなくフォローしていくというあり方は、相手のものさしの足りていないところも含め肯定することだと言えないだろうか。
一つのものさしを共有する関係は一見すると強固かもしれないけれど、なんというかしなやかではない。価値観の地殻変動がひんぱんに起きるいまの時代そういうのはちょっと危なっかしいんじゃなかろうか。
僕には相手のバカに呆れ、自らのバカにずっこけられるような関係がいちばん居心地がいい。

誰だってふだんは自分が一番賢いような気持ちで生きているんじゃないかと思う。
そしてそれはそれで構わないんじゃないか。周りをバカにしていた自分が一番バカであったと懲りずに何度も恥じ入ることができればそれで充分じゃないか。そんなことを思いながらきょうもどこか誰かのことを見下しながら楽しく生きています。