2016.05.18
1
「幸せな生活っていうのはさあ、コンテンツ力が低いよねえ」
いつだったか、うちのひとが言った。
それから我が家では「コンテンツ力が低い」が流行語となった。
新婚生活はどう。
飲みの席でそう聞かれて「毎日好きなひとと眠れるのはしあわせです」だとか、そんなこと答えても白けるだけだ。結局は先輩たちの婚期逃しそうでやばいという話に華が咲き、ぼくはすこし居づらくなる。
twitterでも、モテなさそうな人たちからどんどんリムーブされた。
生身の生活も、SNSでも、不幸のエピソードというのは面白い。コンテンツ力が高いのだ。
ノロケや自慢はよっぽど技術がないと面白おかしく話せないが、不幸自慢はどれだけ口下手であれある程度ウケる。
不幸の方がドラマチックで小噺として華があるからだ。
それだけでなく他人の不幸話は「まだ自分の方がマシ」と安心できたり、「ざまあみろ」とスカッとする。他人よりも自分の方が「しあわせ」だと思えることは気持ちがいい。
うちの近所には縁切りのお社があって、そこの絵馬を覗いてみるとすごい。
「お父さんが松葉杖と早く縁が切れますように」
「弱い心と縁を切る」
ここらへんは少数のほほえましい例だ。
「迷惑なお隣さんがさっさと引っ越しますように」
「誰それと誰それとが円満に離婚できますように」
大半はこういうもので、いかにも縁切りスポットといった感じ。
そんななかで強烈なのが次のようなもの。
「自分よりも性格も悪く主体性もないナントカさんが、自分より世渡りがうまく勝ち組人生を送っているのが許せない。ナントカさんが事故や病気でこの世と縁を切れますように。さっさと死にますように」
すごい。しかもこういうのが一枚や二枚ではないのだ。
世の中の公正さを信じる心の哀しいこと、他人をやっかみ自分を省みない無邪気さ、簡単に「死ね」とか言えちゃう想像力のなさ……
顔も名前も知らない誰かさんへのあてこすりはいくらでも浮かんでくるけれど、わざわざそれを書き起こそうと言う気にはならない。
自分の不幸にがんじがらめになって、絵馬に呪詛を書き殴らずにはいられなくなった人たちのことを、余裕のあるぼくは想像することができる。
それはどんな不幸だろうと想う。
幸運にも彼らより知性も品性もあり、それを保つ生活の余裕もあるからこそ、こうやって想像することができるのだということも、彼らの生活と僕の生活とがまったく何の関係もないことも、理解している。
関係ないから、ほんとうは興味もあんまりない。
興味を持たなきゃとも、さっぱり思わない。
誰が不幸であろうと、誰がしあわせであろうと、僕の生活の良し悪しには何の関係もない。
そんなことすら知らずに生きてきた人。そんなことすら見失ってしまった人。
そうした人がすくなくないこと、そうした人たちを生み出してしまう社会の構造を思うと、だいぶ暗い気持ちになる。
仕事も家庭も手に入れた僕は、「死ね」と言われる側に立っている。
2
一億のルサンチマンをもってしても、10人の富裕層はびくともしないだろう。
資本主義は、残念ながら俺よりはずっと長生きだろうし。
そうしたニヒルな諦念から富裕層を客にとる仕事を選んだ。
自分と関係のない他人の「勝ち組人生」で飯を食うことを平気で決めちゃったくらいなので、もとからぼくには他人の生活を自分の生活と較べるという発想に乏しいのかもしれない。
とはいえそれでもお金がないことは苦しく、仕事に疲れたりすると、うっかり「金持ちはいいよな。その湯水のように余ってる金を少しこっちによこせよ馬鹿野郎」みたいなことをこぼしたくもなる。
子供を持つとして、奥さんの分の収入がなくなったうえでいまの生活水準を維持できるようになる日はくるのだろうか。
帰る時間がどんどん遅くなり、休日もなくなっていく。そのうえで残業代も出なくなるのがわかりきっているこの会社できちんと働き続けていけるんだろうか。
オリンピックに向けて、着実につまらなく整備されていく街々とともに、亡くなってしまうものはどれほどあるんだろう。
憲法すら守ろうとしない、権力というものがどういうものか自覚できていない人たちが動かそうとしているこの国はどれだけひどいことになってしまうんだろう。
このままいくと、なにをしても「正しさ」に難癖つけられて、息もできなくなる社会にしか辿り着かないだろう。
未来を想うと暗い。
けれども未来が明るかったためしがない。
ついこの前まで、会社に使い捨てられ、誰からも相手にされず、ひとりぼっちで、他人の生活へのやっかみに狂って「死ね」と書き散らすようになる未来を想像して、叫びだしたくなるような夜を過ごしていたのだ。
それがいまや、なんとかなっているどころか、満足な豚のような生活を送っている。
たしかに奨学金という名の借金も膨大だし、一億総貧困へと向かっていくようなこの国で生きる若者らしく、夢も希望もお金もたいして持っていない。
それでも当分は潰れなさそうな会社に勤め、大好きな奥さんと暮らすいまの生活は楽しい。
毎日ただ家に帰ってくるだけで嬉しいし、目を合わせてにこりとするだけで満たされる。
このまま死ぬまで、なんとかなりつづけるといい。
のんきに暮らしているだけで済ませてしまいたい。
どうか、持ちこたえてくれ、資本主義と平和。
どうか、余計なことばかりしてくれるな、国。
七億円当たらないかな。
そうしたらちょっとは安心できるんだけど。
2016.03.18
結婚して5日くらい経った。
結婚してわかったことは、「続いていく」ということだ。
いや、知ってはいたのだけれど、いま、左手の薬指に目をやるたびにくすぐったいような新鮮な喜びを感じるほかは、とくだん大きな変化もなく、これまでと同じように生活を続けているなかで、「続いていくんだ!」とこころでわかったのだ。
そんなつもりはなかったのだけれど、どこかで結婚というものを「めでたしめでたし」だと思っていたようだった。もしくは、誰かが訳知り顔で言うように人生の墓場だと。
とにかく、なにかの終わりだと思っていたのだけれど、いざ結婚してみると、ただただ「ここから生き直していくんだな」というような気がしたのだ。
入籍日は、お互いの誕生日のちょうどあいだにある日、ということで選んだのだけれど、あの日が僕のあたらしい誕生日だったのだ、と翌々日に区役所で僕とおそろいの名字を持った彼女の名前が記された住民票を受け取ったとき、はっとした。帰り道、高校生の頃すがるように聴いていたthe pillowsの『アナザーモーニング』をiPodから掘り出した。
この曲をこんな気持ちで聴くことになるとは思わなんだな。
結婚しましたと投稿すると、フェイスブックでは150ちかい「いいね」がついた。
「いいね」というのは「見ました」とだいたい同義だけれど、自分にこんなに「友達」がいたのかと驚いた。すこし怖かった。
フェイスブックのアカウントいつ消そうかな、なんてことを考えながら、先日打ったお芝居の終演後にささやかに行わせてもらった指輪交換式で、とても暖かかく祝福してくれた大好きな友だちたちのことを思う。
あの人たちを友だちというのはなんだか変な感じがする。
僕の好きな人たちは、ひとりひとりとても大切で、その関係をいちいち名付けることがとても野暮なことに思えてしまうのだ。
いま、目の前で僕のジーンズの股の裂けたところを直してくれている人も、そうだ。
僕らはお互いのことを名前で呼べない。
それは結婚する前から変わらない。
大事な人やことほど、名前でつかまえるのがむつかしい。
つかまえてしまったら、いや、つかまえてしまっても、いまさら何も変わりもしないのだろうけれど。
この人の名字が正式に変わった日、それを証明する書類を持って僕は自転車を走らせた。高校生の頃好きだった曲を聴いて。もしかしたらとっくのとうに股の裂けていたジーンズを履いて。
この人と、ここから生き直す。
生き続ける。
長生きがしたいな。
ここ何週間か隔日の筋トレが続いている。
ザバスを飲んでいるおかげか、めきめき肉がついていくから面白い。
筋トレをしないほうの日に、柔軟をしようかな。
不健康と孤立が格好いい時代は、終わった。
これからは健康でなかよしが最高にクールな時代。
自分史の四半世紀を前に、革命的な大転換。
いまの気持ちとしては、これで思い切り好きなことができるな、ということ。
ほかの女の子からのモテや、いろんな人からのちやほやをそんなに欲しがらないでよくなったいまこそ、したいことだけをしようと思う。
次に打ちたいお芝居の構想もぼんやりとできている。
はやくみんなに話したいな。
俺は、いままでよりずっといい芝居を書くよ。
お仕事も、なんだかんだ頑張っちゃうよ。
たぶんね。
人生を背負って大ハシャギ。
2015.12.08
「そのくらい言わなくてもわかるでしょ」「このくらいは察してくれよ」というのは大人になるにつれ通用しなくなる。「そのくらい」という「常識」は極私的な経験則に過ぎないから、まるきり違った何十年を生きてきたもの同士があっさりと共有できるものではない。
ガキがなにか悟ったように正しそうなことを言って、「世の中馬鹿ばっかりだ」と超然としていられるのは、経験が乏しいからだろう。自分の歩いてきた道のりからたどり着けそうな「正解」以外にも、いく通りもの道程と「正解」がありうるのだということを想像することができないからだ。
それは仕方がない。想像力というのも経験によって磨かれていくものだから。
そして経験というのは共有ができない。わかりきっているようなことでも、やってみて、体感しないとやっぱり「わからない」のだ。
ものごとに対する目の付け所や感度だって人それぞれまったく違う。誰かが目くじらを立てたことを「そんなこと」と受け流す前に、その怒りに至るその人の文脈を推し量る。どうせわからない。そんなにすぐわかりっこない。わからなくとも投げ出さずに、なにか自分とは違う道程があることを忘れない。
忘れずに気に留めておくといつの日か「そんなこと」が「そんなこと」じゃなくなる。人と丁寧に向き合うというのは、お互いの常識というものが単なる幻想であることに気がつくこと。そしてその幻想をお互いの落ち着ける形に書き換えていくこと。それはとても時間と手間がかかる。
「長く一緒にいる」というのはだからものすごいことだ。ちゃんと手を抜かず一緒にいたら、わかっちゃったり、察せちゃったり、たまにだけど、するんだもの。自分のいたくないところに我慢して留まっていると、いつの間にか自分も嫌な人間になっていくというのも、「長く一緒にいる」おそろしさだ。
誰と一緒にいるかというのは、ちゃんと選ばないといけない。ちょっとでも好きでいれそうな自分でいるために、嫌いな人とはうまく距離をとるべきだし、好きな人とちゃんと一緒にいなくっちゃ。
一緒にいるうちに、好きな人と自分と照らし合わせてなんて自分は醜いんだろうと落ち込むことも、なんてこの人はだらしがないんだろうと憤慨することもありそうだ。そうしたとき、見て見ぬ振りで誤魔化さずに、けれども深刻にもなりすぎずに、お互いのズレをひとつひとつ手にとっては眺め回していく。そうやって少しずつ、好きな人の経験を、ほんのりとでも、自分のもののように錯覚していきたい。そうやって、一緒にいる人とだんだん似てきて、おなじような「常識」に惑わされるようになっていく。より自分にとって魅力的な自分になっていく。好きな人と一緒にいるというのはそういうことだと思う。
いま心配で仕方がないことは、このまま好きな人と一緒にいると、自分のことを好きになりすぎて、死ぬのが本当に嫌になりそうだということ。
いま、すでに死ぬのがけっこういやだ。
2015.11.27
2015.11.25
2015.11.06
休日のいまは午前9時50分。
同居人を送り出した5分後には、回していた洗濯機が仕事を終えて、ラジオをつける。
ぼんやりと聞き流しながらすっかり干し終える頃には陽射しは気持ち良く強くなって、寝間着の半袖ティーシャツにパンツという無防備な格好でも暑いくらいだった。
こんなにきもちのいい陽射しは久しぶりだった。
そういうわけで、ベランダに日向ぼっこに出ることにした。
部屋の中から椅子を持ち出して、いちおうきちんと外行きの格好に着替える。
せっかくだから陽にあたりながらものでも書こうと、オンボロのMacBookはガタピシいいながら膝の上でがんばっている。
そうして腰を落ち着けたのが午前9時50分。ここまで書いて、いまは9時58分。
老Macは文字の変換にいちいちもたつくのだ。
午前いっぱい干せば乾くだろうか。嬉しい天気だ。
ここでふと観たかった映画の配信が今日いっぱいであることに気がついたので、洗濯物が乾くまでそれをみて過ごそうと思う。
(午前10時02分。中断)
正午を少し過ぎたところ。
映画を観た。
バートリ・エルジェーベトの鉄の処女伝説に基づいた映画。
大好きな女優、ジュリー・デルピーの映画。彼女が脚本・監督から主演はたまた製作・音楽まで手掛けているという。
ぞくぞくするほど美しい映画だった。
ダニエル・ブリューリュのお尻の滑らかさと、執拗に繰り返されるジュリー・デルピーの手のショットに、老いに対する彼女の美意識としんと冷え切った洞察が込められているようで気持ちがひりつく。
この人はほんとうに美しい歳の重ね方をしている。
美しいものはおそろしい。
美しいものへの畏れを忘れかけてどれだけ経っただろう。
そういうのは中二病っぽいしもう卒業しよう、なんて思ってここ数年ご無沙汰だったはずなのに、
悪徳や退廃、フェティシズムへの憧憬が、またむくむくと興ってきていて、『城の中のイギリス人』だとか、『夜のみだらな鳥』だとか、『O嬢の物語』あたりを読み漁りたいような気持ちでいる。
きっと今の生活が安定してきたからだ。
平穏な退屈と余裕があってこそフェティッシュに耽溺できる。
快楽主義者とは高雅なものなのだから。
気高い快楽主義者はさっぱりと乾いた洗濯物を取り込みながら、伯爵夫人を演じるジュリー・デルピーはマッツ・ミケルセンに似ていたな、マッツが主演の『ハンニバル』の屍体の撮り方はそれはとても美しいんだ、などとうっとりとした。
所帯染みたいまだからこそ存分にデカダンスを弄ぶことができるのだ。勝ち誇ったような気持ちで下着を畳み、衣装ケースにしまいこみ、鼻歌を歌っている。
2015.08.27
恋や革命、悪徳や退廃にそれほど心躍らなくなってからどれだけの時間が経っただろう。
テレビや音楽に踊らされることに自嘲まじりに気持ちよくなることがすくなくなってどれくらいだろう。
小学生のころ、40日ほどもある夏休みのうち30日は暇だった。
何もすることもなく、出かける気にもならず、部屋の隅にぼんやりと体を横たえて、陽に当たって浮かび上がる埃をぼんやりと眺めては、この部屋にはこんなにも埃が待っているのか、こんなところで呼吸をしていたら体に毒じゃないか、なんて不安になって、じっと息を止めてその埃を眺めていた。しばらくして息を止めることも忘れて、こっそりいかがわしいサイトを検索したり、なにごとか物思いに耽っているうちに、日が暮れていく。
もとから、僕にとってのデカダンなんていうのは全く華やかでも泥臭くもなかった。
ただいつ果てるとも知れない、だらだらんとした退屈があるだけだった。
上京してから、華々しかったり、ぐずぐずと湿っぽい退屈しのぎを覚えたのは、きっと、たださみしかったのだろう。
それまでだって、いまだって、ずっとさみしい。
けれども、いまはそのさみしさを弄ぶことができる。
上京以来これまではさみしさは立ち向かったり、見て見ぬ振りをしたり、必死に忘れるものだった。
今はさみしさは恋しいものだ。ふやけた毎日の中でふと思い出す甘いものだ。さみしさはたのしいたいくつ。
大人になってよかったと思うのは、たいくつをしていることが、自分のつまらなさを暴くようなものではなくなったこと。
いつだってつまらないからだ。
さみしいときだけ、いつもよりすこし面白い人間になれるような気がする。
ひとりになりたいからものを書く。
ものを書くのはさみしくなりたいからだ。
どこにも届きそうもない、そもそも届けたいのかどうかさえはっきりしない、ことばを弄びながら、他人みたいな文章をでっちあげる。
さいきんは、勉強したいな、と思う。
勉強をして、もっとましな人間になりたいという、あまりに子供じみた、そしてだからこそ根源的な欲望がむくむくと立ち上がってくる。
このままふやけた毎日を送っていると、いつしか、さみしさと戯れることも忘れてしまって、ほんとうに、いつまでもぼんやりとした頭で歳を取っていくだけなんではないかしら。
どんどん忘れっぽくなるし、気がつけばぼんやりしている。
あんなにうるさかった頭の中がいまではがらんと静かだ。
それはすこしほっとするし、それ以上にこわいことだ。
おしゃべりな頭の中こそが自分自身だと思っていた。
だとしたらこの空洞はなんだろう。
こうしてキーボードをいじくっていればまだなんとなく文字は起こせる。
中身は全くないけれど、それはこれまでもずっとそうだった。
勉強をしたいと思う。
べつに偉そうな誰かの言葉や考えをそれっぽく引用するような、飲み会の席で年寄りの垂れる訓示じみた文章が書きたい訳ではないけれど、このままでは、自分で自分のことを信用できなくなりそうだから。
自分の中に他者をたくさん抱えることはいいことだ。
自分の中にの他者の数が、世界の捉え方の可能性の幅そのものだ。
これまで寄り添ってきた本や映画、歴史や音楽がからっぽで凡庸な僕のことをすこしだけましな人間に見せてくれる。誰に見せているかって、それはもちろん僕自身にだ。他の人は関係ない。
いま、僕自身が閉じてきているのをひしひしと感じる。
このままではこれ以上の他者を自分の中に受け入れることができなくなるんじゃなかろうか。
そうなる前に、もっと、もっと勉強をしたい。
ことばを、寛容を、柔軟を、いいかげんさを、すっかり失う前に。
革命も退廃もただの娯楽。
毎日は非凡なまでに平々凡々。
やわらかくいいかげんに暮らしていきたいやね。