2018.02.27

「あ、たぶんこの景色はずっと忘れないんだろうな」と思わされる情景のただなかで、僕は大概ほかのことをしている。
先日新居となる家から町へと歩いた。
新居のあるところと町とを分かつ大きな川にかかる橋めがけて歩いていくと、土手がどんつきのようにそびえ立っているところに着く。
壁のような土手の裏側。
そこから道路一つはさんだところに、橋へと続く階段があって、それをのぼるうちにどんどんにおいが川の近くの感じになってくるのがわかる。
とうとう橋の上についたとき、それまで目の前の土手と、真上にかかる橋とで窮屈だった視界がいっぺんにわーっと拓ける。
時刻はちょうど日が高く上るころで、車通りがおおくけしてきれいとは言えないけれど冬らしく澄んだ空気で川が向こうまで見渡せる。
ちょうど向こうで電車が川を渡っているところだった。
眼下では少年が野球をしている。白いユニフォームはもちろん土にまみれ、青い汗のにおいを思い出すようだけれど僕は野球が嫌いな少年だったので球児の汗のにおいなんて知らない。
完璧だなあ、気持ちがいいなあ、これは。
隣を歩く人が「楽しすぎて泣けてきちゃうな」というようなことを、楽しすぎて泣けてきちゃうような様子でいうので、思わず泣けてきちゃうところだったけれど、僕はそのとき、タブレットをいじりながら奥さんとLINEをしていたのでものすごく曖昧な空返事をしただけだったように思う。
というのも最愛の奥さんはその日の前日親知らずを抜いた。
そうしてこぶ取り爺さんの爺さんのようにぷっくりと腫れたかわいい顔の奥さんは、かわいいのだけれど痛みとだるさでかわいそうなのだった。
僕は家でお留守番をしているこぶ取り爺さんのようなかわいい奥さんのことが心配でたまらず、完璧な情景のさなかタブレットばかり見ていた。
もったいないことをした。

けれども思い返せば、「あ、たぶんこの景色はずっと忘れないんだろうな」と何度も思い返すことになる情景は、おおくのばあい「だからもっとちゃんと全身で味わっておくべきだった」という後悔とセットになっているようなのだ。
そうした情景のただなかで、僕は大概ほかのことをしている。

たぶんその場で「味わいそこねた!もったいないことをした!」と後悔しているからこそ何度も思い返すことになるのだろう。
その場で没頭していれば、思い返すとしてもそれはその場での得難い経験の出がらしのようなものなのだから。
なんど聴いてもメロディが覚えられないから、いちいち初めて聴くような気持ちで音楽を聴ける。
読んだ端から忘れるから、いつでもあたらしい発見とともに本が読める。
古い友人でも名前すら出てこないことがあるから、十年ぶりに会う人でも二か月ぶりの人でも、おなじように新鮮な気持ちでお茶に行ける。
没頭したものは、覚えている必要がない。いつあったっていいんだから。

けれども一回きり、そのときだけのよさというのもあって、ぼくはそういうものをちゃんと経験しそこなう。
いいとき、いいところで、なにか別のことにはんぶん気を取られている。
それはもったいないことだなあと思ってしょげる。
けれども、その場で味わいそこなうからこそ、それを思い出すとき、いちいち新鮮で、得難いような感覚をおぼえるのだと思いなおすと、なんだかお得な性分にも思えてきてちょっと気分がよくなってきた。

反省文のつもりで書き始めたけれど、なんともしまりのない感じになってしまったな。
まあいいか。

 

2018.02.13

ここ一年くらいだろうか。
発酵にハマっている。

さいきんはすこし落ち着いてきて、会う人会う人に「それは発酵ですね」「発酵でいうとこういうことですね」なんてうざい会話を仕掛けることもなくなってきた。
「ちゃんとお世話するから!」と奥さんに宣誓して買った糠床もほったらかしにしがちだ。この季節だと冷蔵庫に一か月くらい放っておいてもなんともないことがわかり、なおさら構ってやらないでいる。よくないと思う。
それでもやっぱり、ことあるごとに「これは発酵だなあ」と思う。

発酵と同時期にハマったもののひとつに能がある。
あのお面をかぶってのろのろ動くやつだ。
あれもまたべらぼうに面白い。

発酵と能に共通するいいところは「時間がかかる」ことだ。
発酵食品づくりを実践しようとなったら、それが糠床だろうとパンだろうとやることは微生物のために環境を整えること、ほぼそれだけだ。あとはただ時間が経つのを待つ。この、他者のために心をくだいて環境を整えてやり、のこりはすべてこの他者たちのはたらきに委ねるだけというのがとても気持ちがいい。僕も微生物もただあるだけだ。基本的にはほったらかしあっている。そんななかたまたまお互い気持ちがいいようにできると、おいしいものが出来上がったりする。
能の上演もものすごく高濃度に圧縮された短いテクストをじんわり解凍していくように、長い時間をかけてゆっくりと謡われ、舞われる。そもそもこのテクスト自体が云百年の時を経てどんどん短く濃く醸成されていったものだし、その解凍のメソッドも同じように歴史を背負っている。歴史を持つということは、今を生きる主体にだけ還元できるものではない何かを持っているということだ。

発酵も能も、自分の意志の介在しようがない「ただ過ぎていく時間」というものが大事だ。
これが僕の気分にとってしっくりくるところの一つなのだ。

自分の意志で勝ち取ってきたものなど何一つない。
すべては偶然とフィーリングでなんとなく決まってきた。
それは牛乳がチーズへと発酵していくのにも似ている。
それは詠唱される情景が刻一刻と変化していって、それを聴き終えたときにはじめてその折りたたまれた情景の全体が感覚できるのに似ている。
すばらしい両親を選んで生まれてきたわけではない。いくら食べても肥らない体に育ってしまったのもなんだかそうなっていたということで、望んだわけでも嫌なわけでもない。本を読むことや勉強が苦でないどころか割と好きなのもたまたまだ。進学する学部だってクラスの女の子に「かっこいい」と言われたところに決めた。友達だって、どうして仲良くなったのかどころかどうしていまも仲がいいのかすらよくわからない。住むところも就職先もそのときどきの成り行きや当時読んでいた漫画や「なんとなくいい感じ」という雰囲気で決まってきた。僕たちの最高の結婚だって、僕の意志というよりも、たまたま奥さんと同じくらいのタイミングで「いい感じ」がやってきたから決まったことで、しいて言えば僕らの意志なのだけれども、それでもやっぱり「結婚するぞー!」みたいな力強い意志みたいなものはそこにはなかったように思う。

振り返ってみるとなおいっそう、大きなイベントほど自分の意志で選び取ってきたわけではないな、という感じが強くなる。
いつでも個人ができることなんて、なんとなくの感じだけで、このまま流れに身をゆだねていくか、それともちょっと逆らってみるかを考えることだけだ。
個人が現実に対してできることなんて、糠床をかきまぜてみるくらいのことなのだと思う。

糠床をほったらかしにしすぎて水が出てきてしまったり、やばそうな臭いが漂ってきてしまったら、乾燥シイタケや塩を足してみて、祈るような気持ちで二三日待つ。
このときも僕は何もできない。
微生物の集合住宅である糠床の中で勢力図がどうあるかなんていうのは、人間とは関係のないところで起こる。
それでも僕は勝手だから、僕にとっておいしい漬物をこさえてくれる微生物たちに加勢しようとする。干しシイタケや塩を加えて糠床の環境を整えてやることはたしかに僕の「おいしい糠漬けをつくりたい」という意志みたいなものかもしれないけれど、これは意志というよりも祈りに近い。それに糠床の環境を人間に都合のいいように立て直すのは「おいしい糠漬けをつくりたい」という気持ちではなく、水分を吸収する干しシイタケや、pH値を整える塩を投入するその行動であって、たとえ「おいしい糠床をつくりたい」なんておもっていなくたって、干しシイタケや塩を入れたら糠床の環境は変化していく。
糠床という小さな現実に対してみてみても、意志はその現実に何も関与しない。

行為と時間の経過だけが現実にはたらきかける。

自分にできることなんて、動いてみることと止まってみること。あとは待つことだけだ。

発酵を通じて微生物のことを考えていると、ぼくらはほんとうに一人で生きているわけではないと痛感する。そもそもこの身体だって、自分由来の細胞よりも巨大な数の微生物が暮らしている。わたしの身体は膨大な他者との共用物なのだ。

悩むのは適量を守っていれば楽しいけれど、過ぎると孤立してしまったような息苦しい気持ちでいっぱいになってしまう。
そういうときは自分で決められることや自分で選び取れるものなんて実は何一つないということを思い出すと、少し楽チンになるんじゃないだろうか。
さいきんはそんなことを考えている。

現実に文句があるのなら、悩んだり意志をたくましくすることよりも、とりあえずかきまぜてみて、じっと経過を待っているというのが、案外いい感じにおさまっていきやすいようにも思う。

楽しい感じのすることだけを大事にしていきたいな。

2018.1.10

左手の日に日に細くなっていく薬指にかろうじてひっかかっている指輪をさっきまじまじと見つめてみたら、これはなんてかわいい指輪なんだろうと改めて感心してしまった。

この指輪に決めた日からたぶんもう二年以上が経っているはずで、結婚でもしてみるかとなってからわりと早い段階でこれと決めて我が家にお迎えした。とたんに、はやくこれを嵌めたいという気持ちが起こって入籍の日取りを早めたくらいだった。

こんなことを思うのは、つい二三日前に指輪をなくしかけてヒヤッとしたからかもしれない。
ヒヤッとする事態はそれで二度目だった。
たぶん僕はモノに愛着こそ持てども執着はしない性質のようで、なくしたかもしれないと気がついたとき、一度目ほどはショックが強くなかった。
一度目は「自分は大切なものをうっかりなくしてしまうような人間だったのか」というショックが大きかったけれど、いまではもう自分は大切なものをうっかりなくしてしまいかねないと知っているのでそういう類のショックはもう大きくはない。
それでもやっぱりショックは受けていたのだけれども、それと同じくらいの強さでもって「次はどんなのにしようかなあ」という考えが浮かんでいた。

モノは個人的な情報の記録や伝達、保管のためのメディアであって、なくしてしまったら自分の身体にバックアップが残っているうちに替わりのものを手にすればいいのだと思っている。

とはいえ、そのモノにしか媒介できない情報というのもたしかにあるだろうから、替わりのモノに付与されるのはかつてあったモノがいまはないという喪失の情報だろう。
そうした喪失の情報それ自体がメディアとなって、かつてそのモノが媒介していた情報を媒介する。

きのうイーガンの『ディアスポラ』を読み終えて、すっかりSF気分だ。
昨年のはじめごろに夢中で読んだ清水博『生命を捉えなおす』が、今年のSF気分の育つ土壌を耕していたのだなと気がついた。
本を読むことは、他者を自分のうちに受け容れるということだ。
他者との混濁から、あたらしい自分の相貌が表れてくる。

あたらしいアプリに対応するためにOSをアップデートするようなものだろうか。
アップデートしたOSでは、これまで想像もしていなかったものやことを、それまで想像もできなかった方法で走らせることができる。
そうやって自分をどんどん書き換えていく感覚は楽しい。

いまはとにかく手当たりしだい他者と交わって混濁したままの状態だ。
ここから上澄みを掬うように、これからの自分を、ある程度安定した形に決め込んでいかなくては日常生活に支障が出てきそうな予感がある。
溜め込めるだけ溜め込んだら、そこから何を捨てるかが自分をつくる。
自分の身体というメディアに溜め込める容量には限界がある。
けれども捨ててしまえば、その捨てたという情報それ自体が、あたらしい情報のメディアになる。「あれを手放した」という記憶それ自体が、外部記憶装置となるのだ。

手放すことは、拡張することなのだ。

今はなんだかそんなような気持ちでいる。
とりあえず、なるべく指輪はなくさずにいたい。

2018.1.4

きのうは奥さんと二人、ガストでドリンクバーパーティを催した。
パーティは夜中の1時まで続いた。

そこで出た話題で面白かったのは、奥さんの趣味があまりおしゃれではないことの奥さんによる自問自答で、そこから導き出されたのは「あなたはおしゃれなものが好きなのに、あなた本人はおしゃれではない」という指摘だった。
とんだとばっちりだ。

きれいなものが好きであることと、本人がきれいであることとは、別のことだ。
自分を好きになるために、自分がきれいであるに越したことはないけれど、自分がきれいだと思うきれいを自らに要求するあまり、かえって自己嫌悪に陥ることだってありうる。
僕らはお互いに、自分の美意識と、その審美眼を自らに対してはつむることとのバランス感覚が似ているのではないか。
そんな話のさなかに「あなたはおしゃれじゃない」と真正面からバッサリやられてしまったのだ。
ちょっとしょげた。

また、お互いに向けている審美眼に関しても、たとえばもう僕は奥さんが何をしていても可愛い。そういうわけで全くあてにならない。そういう話もした。
だから、理想と現実とを分けて考えられるバランス感覚それ自体はとてもいいものだけれど、ちょっとは自らに自らの美をストイックに要求してみる気概を持たなければ、あっというまにしょぼくれてしまう。


我が家の家訓は「仲よく 楽しく 元気よく」だ。
今年はここに「美しく」を加えたい。

「仲よく 楽しく 元気よく そして、美しく」

もうすでにこの標語からしてダサいが、それはそれでよい。いや、よくないのかもしれない。
ともかく、今年は奥さんにあれれと見直されるようなビューティーを手に入れてみせる。

 

2018.1.3

年末年始は、いつも通りでいようと思っていてもなんだかあわただしく、そして気持ちが改まるようなことになってしまう。
いつもと同じように日が変わるだけなのに、ふしぎと新しく生まれ変わったようなすがすがしい気持ちに誘われるのは新年の魔力だろう。こわい。ついついお蕎麦やらお餅やらを食べたくなっている。

今年もとにかく本が読みたい。
昨年は「発酵」をキーワードに本を読み進めていったけれども、今年は「SFと仏教」をとっかかりに始めてみたいと思っている。

ここにきて物語というものはやはり大事だな、というような気持ちになってきている。
どうしてもその負の効用ばかり目について、物語なんてものはないと言い続けてきた。
いい加減、わざわざないないと言いつのらなくても、ないものはないのだと自然に思えるようになってきた。
すると今度はないものを誰かとつくりあげていくことをいま一度見直してみたいような気持ちが湧いてきている。
ないものがあるような気持ちで囚われてしまってはナンセンスだけれども、ないからといってまるきり拒絶してしまうのも同じくらいナンセンスなことだ。
囚われず、わがものにしようとせず、うまい具合の関係を、ようやく物語と築いていけるような感覚がある。
やってみないとわからないけれど。
やってみることにします。
それは文字通り物語を読んだり書いてみることであるかもしれないし、自分の生活に物語を置いてみることであったりするだろう。
生活における物語とは、たいてい邪魔になるものだけれども、たぶんうまく使えばよく活躍をする道具になるはずで、ようやくうまく使えるような根拠の不明な自信が出てきた。

東京というのは洗練とは程遠い田舎臭い場所だけれど、ここでなかったら洗練された場所があるというわけでもない。おそろしいことにもっと田舎臭いところのほうが多いくらいらしい。
いやになっちゃうけれど、いまいるところで、ありもので、なるべくあかぬけたようにやっていくしかないのだ。

よりよい生活のために実践することとして、今年は下記のことを続けていきたい。

発酵食品づくりとプログラミングの技術を体得する。
筋肉をつけてうつくしく太る。
簡単にはへばらない体力と、よく通る声を獲得する。
日本語と韓国語の勉強をする。

上から順番に優先したい気持ちが強い。
せめて上の二つについては騙し騙し続けたい。
そして気分は「SFと仏教」でいくのだ。

今年は奥さんとの企みごとをのんびりとしかし着実に発表していきたい。
それとは別にお芝居もそろそろやってみたい。

年始に浮かされて気が大きくなっているうちに放言しておこう。
なんだかんだ言ってしまったことはだいたいやる。
やれなかったらやらないけれど。
やる。

 

2017年に読んだ本

今年は読書がはかどった年だった。
学生のころよりもたくさん本を読んだかもしれない。
いまの自分の出来うる限り、解像度を高く保って一冊を通読するという意味では今年ほどきちんと本を読んだことはなかったと言い切れる。

 

どの本を読むにしても人生と言うと大げさだけれど、自分のいままでとこれからの働きぶりや暮らしぶり、つまりは生活を考えるために本を読み、そのなかで自分というOSは何度もアップデートされたように感じている。
なので自分という媒体をどのようなものたちが通過していったのかを記録しておくことで、自分の変容していった痕跡のようなものが見えてくるかもしれないと思い、メモとして残しておく。

単純に1月から読んだ順番に書き出してみた。


こうしてみると週に一冊くらいのペースで読んできたらしいけれど、4月の異動までは本を読む時間も体力もなく忙しくさせられていたから、体感としては読書の密度はもっとずっと高い。

まだ幾日かあるけれど、ここからが繁忙期なのでおそらく変動はないと思う。
ポーランの『人間は料理する 空気と土』は読み終えるかもしれない。
翻訳者と出版社は無精して省略してしまった。かなり心苦しいけれど書き足す気力はなかった。

 

【読了(通読)】
マクドゥーガル『BORN TO RUN: ウルトラランナーVS人類最強の“走る民族”』
いつか床子『別人帳』
森見登美彦ペンギン・ハイウェイ』(再読)

清水博『生命を捉えなおす 増補版』
國分功一郎『中動態の世界』
檻之汰鷲『生きるための芸術』

福岡伸一生物と無生物のあいだ
トーマス・ウェイツ『ゼロからトースターを作ってみた結果』
小倉ヒラク『発酵文化人類学
三品輝起『すべての雑貨』
木村俊介『インタビュー』
ブルーノ・ムナーリ『モノからモノが生まれる』
渡邉格『田舎のパン屋が見つけた「腐る経済学」』
寺田啓佐『発酵道 酒蔵の微生物が教えてくれた人間の生き方』
ブルーノ・ムナーリ『ファンタジア』
スヴェンセン『働くことの哲学』
スヴェンセン『退屈の小さな哲学』
森田真生『数学する身体』
國分功一郎『暇と退屈の倫理学』(再読)
佐々木正人アフォーダンス
松岡正剛×ドミニク・チェン『謎床:思考が発酵する編集術』
ウェルベル『蟻』
安田登『あわいの力 「心の時代」の次を生きる』
安田登『能』
藤本智士『魔法をかける編集』
ブコウスキー『ポストオフィス』
高野秀行『謎のアジア納豆:そして帰ってきた“日本納豆”』
イーヴァル・エクランド『数学は最善世界の夢を見るか?』
多和田葉子『エクソフォニー』(再読)
リビルディング センター ジャパン『Rebuild New Culture』
渡邊十絲子『今を生きるための現代詩』
IAMAS『アイデアスケッチ アイデアを<醸成>するためのワークショップ実践ガイド』
トーマス・トウェイツ『人間をお休みしてヤギになってみた結果』
ドナルド・キーン『能・文楽・歌舞伎』の「能」
ラファエル A.カルヴォ/ドリアン・ピーターズ『ウェルビーイングの設計論』
安田登『あわいの時代の『論語』 ヒューマン2.0』
中村雄二郎『臨床の知とは何か』
國分功一郎『中動態の世界』(再読)
渡邊淳司『情報を生み出す触覚の知性 情報社会をいきるため感覚のリテラシー
國分功一郎ドゥルーズの哲学原理』
宇野邦一ドゥルーズ 群れと結晶』
松岡正剛空海の夢』
おかざき真里『阿吽』1〜3巻
ドミニク・チェン『フリーカルチャーをつくるためのガイドブック』
ミシェル・ド・セルトー『日常的実践のポイエティーク』
なだいなだ『権威と権力 いうことをきかせる原理・きく原理』
士郎正宗攻殻機動隊』1・2巻
マイケル・ポーラン『人間は料理をする 火と水』


【拾い読み】
芳川泰久/堀千晶『増補新版 ドゥルーズ キーワード89』
Mark Frauenfelder『Made by Hand ポンコツDIYで自分を取り戻す』
老子老子
コリン・フレッチャー『遊歩大全』
畑中三応子『ファッションフード、あります:はやりの食べ物クロニクル 1970-2010』

 

【読みかけ】
マイケル・ポーラン『人間は料理をする 空気と土』
サンダー・E・キャッツ『発酵の技法』
川添愛『働きたくないイタチと言葉がわかるロボット:人工知能から考える「人と言葉」』
大野晋『日本語の文法を考える』
ドゥルーズガタリ千のプラトー
Fabの本制作委員会『実践Fab・プロジェクトノート 3Dプリンターレーザー加工機を使ったデジタルファブリケーションのアイデア40』
テクタイル『触楽入門 はじめて世界に触れるときのように』


【図書館で借りただけで読まなかった本】
ニコラス・P・マネー『生物界をつくった微生物』
アン・マクズラック『細菌が世界を支配するバクテリアは敵か?味方か?』
ニコラス・P・マネー『微生物 目には見えない支配者たち』
サンダー・E・キャッツ『天然発酵の世界』
ニック・レーン『ミトコンドリアが進化を決めた』
ニック・レーン『生命の跳躍』
ジル・ボルト・テイラー『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』
アントニオ・R・ダマシオ『生存する脳 心と脳と身体の神秘』
アントニオ・R・ダマシオ『感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ
司馬遼太郎空海の風景
小倉 紀蔵『韓国は一個の哲学である <理>と<気>の社会システム』

2017.12.24

 


この前の続き。

コミュニケーション能力について考えます。

 

前回、コミュニケーションを「相手にはたらきかけ、創発的な<場>を醸成する技術であると定義しました。

そしてそうした<場>を醸成するには適切な情報の交換が必要となるということで①相手に分かるように伝えること、②相手の情報を相手の意図通りに理解すること、という二つの要件を見つけ出し、そのうち①について考えてみるところまで書きました。

 

今回は②相手の情報を相手の意図通りに理解することについて考えていきます。

 

 

 

相手の意図通り理解することは、コミュニケーションにおいて大きな勘所であり、かつ最も危険なポイントでもありそうだという予感があって、それはこれが支配や権力に関わることだからです。

 

だからまずもってこれだけははっきりさせておきたい。

相手の言動を相手の意図通り理解することと、相手の思い通りに行動することとは、全く違う。

むしろ、相手の意図通りに理解することは、相手に自分を支配される危険性から身を守るためにこそなされるものだと思っている。

自分を支配しようとしてくるものを知ることは、そのものからの自由への近道なのだ。

 

次に、僕たちは基本的に誰かの言葉や行動を理解なんかしちゃいないということも前提としておきたい。

この文章も、普段のおしゃべりも、多くの場合僕たちは他人を理解なんかしていない。

しているとしてもそれは自分自身の情報処理システムにのっとった理解であり、システムがちがえば理解の仕方も変わってきてしまうという事実への盲目のうえに成り立っている。

僕たちが「理解した」というとき、それは「自分が選び取った情報処理システムが正常に動作した」以上の意味を持たない。

基本的に他人は自分とは異なる仕様のシステムでもって言動を作動させていると考えたほうがいい。われわれはお互いに未開のバルバロイなのだ。

 

「相手の意図通りに理解する」とは、相手の情報処理システムの仕様を明らかにすることにほかならない。

さっきから言っている「情報処理システム」というのは伝わりづらいだろうか。「認識の方法」でも、あるいは単純に「価値観」と言い換えてもいいのかもしれない。

けれどもここではコミュニケーションの主幹に「情報の交換」というものを置いているので、「情報処理システム」という言葉に統一したいと思う。書いているうちにブレるかもしれない。それは僕のシステムの欠陥ゆえだから、愛嬌ある個性だと思っておのおのの中でうまい具合に修正しておいてください。

 

いったんここまでの話を、言語コミュニケーションに的を絞って整理しておきます。

僕たちはみんな同じ言葉を使っているようにみえて、それぞれまったく異なったルールに基づいて言語という情報を処理している。

誤解や衝突などという、コミュニケーションの失敗は、たいていこの「皆それぞれ持っている情報処理システムの仕様が違う」ということに気がついていないことが原因で起こるのではないか。

「万人に共有されている情報処理システム」という幻想が、コミュニケーションの失敗を生むのだとしたら、コミュニケーションを円滑かつ適切に行うためには、相手の情報処理システムの仕様を理解することが必要なのではないか。

 

必要なのではないかって言ったって、そんなことができるのかしら。

そこがちょっと僕にはまだ自信がないところなのだけれど、まずこの情報処理システムは思っている以上に多種多様なバージョンがあることを見失わないこと、そして自分の情報処理システムの仕様をなるべく精確に把握しておくこと、このふたつから根気強く始めていくしかないように思う。

 

「万人に共有されている情報処理システム」という幻想から自由になるためには、自分の情報処理システムが自明のものではないということを認めないことには始まらない。

自分はどんなふうに他者や環境からの情報を「理解=理論(システム)を解き明か」しているのか。

自分の情報処理の癖やバイアスを点検すること。

けれどもこの点検も自分の情報処理システムによって行われるのだから、これは簡単ではない。

けれども簡単ではない自分の基幹システムの分解と再点検という作業は、おのずと他のシステムの構築される手順への想像力を鍛えるだろうと、楽観的な僕は予測している。

他者との関係を考えるとき、まず取り掛からなくてはいけない他者は自分自身である。

諸法無我という言葉に表されるように、自分というのは他者との関係性の「あいだ」に立ち現われてくる現象に過ぎないのだから、自分を分析することはそのまま自分を取り巻く他者のありようを分析することに直結しないほうがおかしい。

 

人はそれぞれ独自の情報処理システムを持ち、情報の入出力を繰り返している。

そして情報の創発的な相互作用によって、自分という現象が立ち現われる。

いま、自分がしんどさを感じているとしたら、それはこの相互作用のシステムになにからの問題があるのかもしれない。

そしてその問題は、個々の情報処理システムが噛み合っていないことに起因する。

情報処理システムと相互作用のシステム、システムがダブついてしまって読みにくいことこの上ないけれど、むりくりこのまま話を続ける。ここでは前者が要素、後者が要素の集合体としての構造を意味する。

 

コミュニケーションにおいて個人がしんどくなってしまうとき、そもそも仕様の違う情報処理システム同士が衝突してしまっている可能性が考えられる。それはそもそもうまく作動しっこない諸要素(個人は関係性のパーツである)がひとつの相互作用システムのなかに放り込まれてしまっているということだ。

そして具合の悪いことに、こうした不具合を抱えた相互作用システムは不具合によってその動作を停止させることはまれなのだ。

たいていの場合、どちらかの情報処理システムが「万人に共有されている情報処理システム」のような顔をして、他の情報処理システムを抑圧し、支配することで相互作用のシステム自体は見かけ上「正常に作動」してしまうのだ。

 

はじめのほうに、相手の言動を相手の意図通り理解することと、相手の思い通りに行動することとは全く違うと書いた。

ここでいう「相手の言動を相手の意図通り理解すること」は、相手の情報処理システムがどんな仕様であるのかをなるべく精確に分析してみせるということだった。

そして「相手の思い通りに行動すること」とは、相手の情報処理システムを「万人に共有されている情報処理システム」であると錯覚し、自身の情報処理システムを抑圧することで相手のシステムの支配下にはいることを意味する。

 

自分の情報処理システムの仕様を抑圧して、新規に他者の情報処理システムを導入するというのは、コミュニケーションではない。

そこにあるのは<場>の画一化であって、創発的な<場>の醸成はないからだ。

コミュニケーション能力は誰かを支配する技術ではない。そう思いたい。

 

では、仕様の異なる情報処理システムを持つ僕たちはどのようにして支配・被支配の不均衡に陥ることなく、調和を醸成するようなコミュニケーションを行うことができるのだろう。

 

僕たちは、仕様の違う情報処理システム向けに、自身の情報を「翻訳」して伝えなくてはいけない。(①)

そのためには相手の情報処理システムの仕様を知る必要がある。それは自身の情報処理システムが唯一絶対のものでないことを知り、その構造を把握しようという試行錯誤から始まる。(②)

このようにお互いの情報処理システムの相違を明らかにして初めて、異なる情報処理システムが気持ちよく共存する<場>を醸成するための端緒が開かれるのだと思う。

 

コミュニケーション、思った以上に複雑怪奇……

 

考えながら書いて書きながら考えていったので、いつも以上に読みにくい、コミュニケーションの取りづらい文章になってしまった。

 

きちんと見直して推敲したいけれど、今日はもう疲れたのでここでおしまい。