2017.12.24
この前の続き。
コミュニケーション能力について考えます。
前回、コミュニケーションを「相手にはたらきかけ、創発的な<場>を醸成する技術であると定義しました。
そしてそうした<場>を醸成するには適切な情報の交換が必要となるということで①相手に分かるように伝えること、②相手の情報を相手の意図通りに理解すること、という二つの要件を見つけ出し、そのうち①について考えてみるところまで書きました。
今回は②相手の情報を相手の意図通りに理解することについて考えていきます。
相手の意図通り理解することは、コミュニケーションにおいて大きな勘所であり、かつ最も危険なポイントでもありそうだという予感があって、それはこれが支配や権力に関わることだからです。
だからまずもってこれだけははっきりさせておきたい。
相手の言動を相手の意図通り理解することと、相手の思い通りに行動することとは、全く違う。
むしろ、相手の意図通りに理解することは、相手に自分を支配される危険性から身を守るためにこそなされるものだと思っている。
自分を支配しようとしてくるものを知ることは、そのものからの自由への近道なのだ。
次に、僕たちは基本的に誰かの言葉や行動を理解なんかしちゃいないということも前提としておきたい。
この文章も、普段のおしゃべりも、多くの場合僕たちは他人を理解なんかしていない。
しているとしてもそれは自分自身の情報処理システムにのっとった理解であり、システムがちがえば理解の仕方も変わってきてしまうという事実への盲目のうえに成り立っている。
僕たちが「理解した」というとき、それは「自分が選び取った情報処理システムが正常に動作した」以上の意味を持たない。
基本的に他人は自分とは異なる仕様のシステムでもって言動を作動させていると考えたほうがいい。われわれはお互いに未開のバルバロイなのだ。
「相手の意図通りに理解する」とは、相手の情報処理システムの仕様を明らかにすることにほかならない。
さっきから言っている「情報処理システム」というのは伝わりづらいだろうか。「認識の方法」でも、あるいは単純に「価値観」と言い換えてもいいのかもしれない。
けれどもここではコミュニケーションの主幹に「情報の交換」というものを置いているので、「情報処理システム」という言葉に統一したいと思う。書いているうちにブレるかもしれない。それは僕のシステムの欠陥ゆえだから、愛嬌ある個性だと思っておのおのの中でうまい具合に修正しておいてください。
いったんここまでの話を、言語コミュニケーションに的を絞って整理しておきます。
僕たちはみんな同じ言葉を使っているようにみえて、それぞれまったく異なったルールに基づいて言語という情報を処理している。
誤解や衝突などという、コミュニケーションの失敗は、たいていこの「皆それぞれ持っている情報処理システムの仕様が違う」ということに気がついていないことが原因で起こるのではないか。
「万人に共有されている情報処理システム」という幻想が、コミュニケーションの失敗を生むのだとしたら、コミュニケーションを円滑かつ適切に行うためには、相手の情報処理システムの仕様を理解することが必要なのではないか。
必要なのではないかって言ったって、そんなことができるのかしら。
そこがちょっと僕にはまだ自信がないところなのだけれど、まずこの情報処理システムは思っている以上に多種多様なバージョンがあることを見失わないこと、そして自分の情報処理システムの仕様をなるべく精確に把握しておくこと、このふたつから根気強く始めていくしかないように思う。
「万人に共有されている情報処理システム」という幻想から自由になるためには、自分の情報処理システムが自明のものではないということを認めないことには始まらない。
自分はどんなふうに他者や環境からの情報を「理解=理論(システム)を解き明か」しているのか。
自分の情報処理の癖やバイアスを点検すること。
けれどもこの点検も自分の情報処理システムによって行われるのだから、これは簡単ではない。
けれども簡単ではない自分の基幹システムの分解と再点検という作業は、おのずと他のシステムの構築される手順への想像力を鍛えるだろうと、楽観的な僕は予測している。
他者との関係を考えるとき、まず取り掛からなくてはいけない他者は自分自身である。
諸法無我という言葉に表されるように、自分というのは他者との関係性の「あいだ」に立ち現われてくる現象に過ぎないのだから、自分を分析することはそのまま自分を取り巻く他者のありようを分析することに直結しないほうがおかしい。
人はそれぞれ独自の情報処理システムを持ち、情報の入出力を繰り返している。
そして情報の創発的な相互作用によって、自分という現象が立ち現われる。
いま、自分がしんどさを感じているとしたら、それはこの相互作用のシステムになにからの問題があるのかもしれない。
そしてその問題は、個々の情報処理システムが噛み合っていないことに起因する。
情報処理システムと相互作用のシステム、システムがダブついてしまって読みにくいことこの上ないけれど、むりくりこのまま話を続ける。ここでは前者が要素、後者が要素の集合体としての構造を意味する。
コミュニケーションにおいて個人がしんどくなってしまうとき、そもそも仕様の違う情報処理システム同士が衝突してしまっている可能性が考えられる。それはそもそもうまく作動しっこない諸要素(個人は関係性のパーツである)がひとつの相互作用システムのなかに放り込まれてしまっているということだ。
そして具合の悪いことに、こうした不具合を抱えた相互作用システムは不具合によってその動作を停止させることはまれなのだ。
たいていの場合、どちらかの情報処理システムが「万人に共有されている情報処理システム」のような顔をして、他の情報処理システムを抑圧し、支配することで相互作用のシステム自体は見かけ上「正常に作動」してしまうのだ。
はじめのほうに、相手の言動を相手の意図通り理解することと、相手の思い通りに行動することとは全く違うと書いた。
ここでいう「相手の言動を相手の意図通り理解すること」は、相手の情報処理システムがどんな仕様であるのかをなるべく精確に分析してみせるということだった。
そして「相手の思い通りに行動すること」とは、相手の情報処理システムを「万人に共有されている情報処理システム」であると錯覚し、自身の情報処理システムを抑圧することで相手のシステムの支配下にはいることを意味する。
自分の情報処理システムの仕様を抑圧して、新規に他者の情報処理システムを導入するというのは、コミュニケーションではない。
そこにあるのは<場>の画一化であって、創発的な<場>の醸成はないからだ。
コミュニケーション能力は誰かを支配する技術ではない。そう思いたい。
では、仕様の異なる情報処理システムを持つ僕たちはどのようにして支配・被支配の不均衡に陥ることなく、調和を醸成するようなコミュニケーションを行うことができるのだろう。
僕たちは、仕様の違う情報処理システム向けに、自身の情報を「翻訳」して伝えなくてはいけない。(①)
そのためには相手の情報処理システムの仕様を知る必要がある。それは自身の情報処理システムが唯一絶対のものでないことを知り、その構造を把握しようという試行錯誤から始まる。(②)
このようにお互いの情報処理システムの相違を明らかにして初めて、異なる情報処理システムが気持ちよく共存する<場>を醸成するための端緒が開かれるのだと思う。
コミュニケーション、思った以上に複雑怪奇……
考えながら書いて書きながら考えていったので、いつも以上に読みにくい、コミュニケーションの取りづらい文章になってしまった。
きちんと見直して推敲したいけれど、今日はもう疲れたのでここでおしまい。