2015.02.22
今朝の朝食はバナナとレーズンのマフィンにインスタントコーヒー。
起き抜けにリビングにお客さんがいて、あんまり愛想よくできなかった。
きょうは家で昼間からお酒を飲む会が開催されるらしく、そのお客さんみたいだった。昨晩訪問してきた物音を聞いていたけれどもう布団のなかにいたのでそのまま寝た。
日の高いうちから飲むお酒というのはなんであんなに楽しいのだろう。一瞬、一杯付き合ってから出勤しようかしらという考えが頭をよぎるも僕は理性的な人間だった。
理性的な人間のくせに寝起きではじめましての人に出くわした動揺ゆえかうっかり一時間はやく出てしまった。もうすこし家でゆっくりすればよかった。仕方がないので紀伊国屋書店まで行ってふらふら眺めた。アルコールよりも紙とインクのほうが僕をうっとりさせてくれる。
紀伊国屋書店が出している本、『僕はお金を使わずに生きることにした』しか知らなかったけれど、かなりそそられるものが揃っている。『ファッションフード、あります』は絶対に買う。『道徳性の起源 ボノボが教えてくれること』『ナチュラル・ナビゲーション』『スエロは洞窟で暮らすことにした』の三冊もたまらない。いつか買う。そう思って来月の支出をざっと計算してみると、来月なんにも買わなかったとしても、カード諸々の支払いで3月末の給料がごっそり持っていかれるどころかそれでも足りなそうで、ため息しかでない。
仕方がない。がまんする楽しさを味わうしかない。そもそも買うだけ買ってまだ読んでいない本が何冊もある。
しかして、本は読めばいいというものでもない。本は単なる情報ではないのだし。
読書という行為は効率とは馴染まない。読み高とでもいうか、その量を競うものでもないんだから。
きのうに引き続き保坂和志botを引っ張り出す。
一冊の本を何日も時間をかけて読んでいくという行為は、視覚には絶対に還元されることのない思考というものが厳然とあるということが体に染みるように実感されることで、こればっかりは読書経験の貧弱な人には絶対に理解できない。
— 保坂和志bot (@k_hosaka_bot) February 20, 2015
小説や哲学の文章は、蚤で象る彫刻や、絵筆で描く絵画や、楽器で奏でる音楽と同じで、言葉という道具を用いて表された作品であるのだから、それは空間の広がりを持つはずだ。
紙の本は、言葉によって表されたものが持つ空間の広がりを、物質としての存在感によって体現しているように感じられるから好きだ。だからこそ読まなくたってつい手元に置いておきたくなる。それに、手元にあれば、いつでも手を伸ばせるのだ。これはとても大切なことだ。
紙の本以外は認めないというほどの反動主義ではないし、Kindleだって持っている。けれども、いつまでも紙の本を買い続けるだろうと思う。
電子書籍はファッション雑誌とかビジネス本みたいな情報の伝達に特化したものを集めたりするにはかさばらなくて便利だけれど、雑誌だって優れたものはそれ自体空間の広がりを持っていると思っている。
本屋で過ごしてからの数時間は調子がいい。上に書いたようなことを頭の片隅でふわふわ考えながら仕事をする。
お昼。お弁当にはきのうのプルコギ、冷凍イカ。