2015.04.07

家の裏手は丘のようになっていて、昨晩のランニングでは丘の反対側から頂上の見晴らし公園を経由して家まで下ってこようと思ったのだけれど、想像していたよりも丘の道は長く入り組んでいて、迷って同じ坂を何度も上り下りした。
だいぶ疲れたけれど決して歩くまいと思って踏ん張って、そういう風にちょっとした限界を更新するのは楽しい。
BGMは大好きな映画のサントラ集。
「虹の彼方に」がかかるころやっと見晴らし公園にたどり着き、はらっぱに身を投げ出した。
仰向けで寝転がり反転した桜の木は芽吹いた緑がまじっていて、24時過ぎの横浜の赤茶けた明るい空をバックに、とてもきれいだった。
ああ、きっと忘れないな、という風景はいくらでもあって、それはふとしたときに現れる。
だいたいひとりのときだ。
ぽつんと取り残されたような気分のとき、風景だけが残る。
iPodから「雨に唄えば」がかかるころ、ハイになった体は勝手に跳ね起きて、一曲丸々でたらめに踊った。飛んで、跳ねて、原っぱの勾配を転げ落ちた。愉快になって思わず笑った。いま人が来たら間違いなく通報されるだろう。

会社帰りにもらったお餅とお団子をぱくつきながら、だらだらと午前2時過ぎまで寝そこなった。

✳︎

9時前には起きだしてコーヒーを淹れて菓子パンと、昨日のお団子のあまりをたべる。
最高に最悪の食い合わせ。

だらだらと岡崎京子の『pink』を読み返し、来月までの貧乏に備えてお金の計算をし、YouTubeでいつだかの夜電波を垂れ流し、何度もトイレに行って、たいくつに気がふれそうになる。
昨日に引き続き気圧は低空飛行を続行中。雨も降っているようで出かける気もしない。
なにをするでもなくぼんやりするのは午前中いっぱいが限界だ。
午前中だけでも暇に任せて余計なことばかり考える。
塞いでいるくせに、世の中の些細な不幸をいちいち引き受けては傷つくような感じやすさを併せ持つ、低気圧特有のなさけない気分。
出かけて行こうか。けれどもふらふら出かけて行くにもお金がかかる。
とにかく生きていくのはお金がかかる。
まったく、中流の中学生のお年玉のような金額で、月末まで生き延びなくてはいけない侘しさよ。こう書いてみて気がつくことは、結局憂鬱の原因の大半は気圧の低下とお金の心配とで片付いてしまう。お金持ちになって南の国で暮らせばそれで幸せだろうか。ほんとうに、実は、案外そんなもんかもしれない。
デューク・エリントンをかけながら、『スペクテイター』の「ZEN特集」を読む。とっても面白い。
中学のころから傾倒していたタオイズムと禅との区別はあんまりついていないし、大体同じだと思っている僕は、この特集のような、オリエンタリズムを介した「東洋思想」としての禅へのアプローチは、そのいい加減さやスノッブさも含めてちょうどいい。
本日三杯目の珈琲を淹れる。現在正午を15分ほど過ぎたところ。 
読みすすめていくうちに我慢ができなくなって20分弱座ってみる。
呼吸と姿勢を意識するだけなのに、とても面白く感じる。
知識は感覚の研磨だ。そう実感する。
禅において日々の生活それ自体が禅の実践で、修行そして悟りとは生活のなかにしか宿らないものらしい。運動の中にしか現れ得ないもの。体も理屈こねるだけでなく実際に動かしてみないことにはわからない。どちらも実践なのだ。不立文字という言葉もあるように、実践でえられる経験と直感がすべて。
なんていうようなことをこうして言葉にしてくどくど語るナンセンス。けれども、言葉を捨てるためには言葉を尽くさなくてはいけないと考えてしまう質なので、もうそこは仕方がない。言葉をばんばか使い捨てて、沈黙よりも雄弁な静けさを手にしたい。

だらだら読書を続けていたらもう夕方。
さすがにここまで引きこもると気持ちもフラットなたいくつで満たされる。
おやすみが終わるなあという寂しい気持ちで家を出て、電車に乗った。

美味しいものを食べて、たらたらと終電ちかくまで過ごして、帰宅する。
引きこもれるだけ引きこもって、ご飯を食べるためだけに出かけて行って、また家に帰るぜいたく。
明日は仕事のあとあたらしい職場の歓送迎会で、そちらにかけるエネルギーを思っていまからくたびれる。けれどもすこしだけ楽しみでもある。
休みの日に、日中たいくつしきってしまうと、いいかげん動きたくなるのは発見だ。
たまにはこうして引きこもる日を作るのもいいかもしれないな。
やっぱり引きこもりきれてはいないのだけど。