2019.12.09

今朝の寒さはまた一段寒さを進めたようで、外に出ると風もないのに頬がヒリヒリした。『富士日記』で飯場に仕事を注文しに出かける描写があって、僕には飯場といえば釜ヶ崎なのでここでいう飯場とはどんなものなのだろうと思う、そうやって労働の現場へと気が向いたタイミングで『ヤンキーと地元』に切り替えて、ずいずいと読んでいった。地元の上下関係がいつまでも続く、その閉塞感はどれだけのものだろう。このまま地元に残ったらこの教室での声の大きさがそのまま引き継がれていくんだろうな、という絶望はなんとなく僕も持っていて、だからこそこうして上京してきたのかもしれなかった。粗野であることが一つの力になってしまうというのが僕にはどうしても承服しかねる。


『自己責任の時代』の序を昨晩読んで、これはじっくり読んでいこうと楽しみだった。国家の義務としての責任は、いまではすっかり懲罰的な責任論にすり替わってしまった。この懲罰的な責任論への反論として、そもそも社会的経済的もろもろの与件によって個人に残された選択の余地など実質存在しない、だから個人に責任を帰すること自体が不可能だというような論もまた、責任の有無が「福祉を受けるに値するか否か」の価値判断の基準になっている時点で懲罰的な責任論と軸を一つにしている。それではどうしたらいいか。著者は責任をきちんとした形で個人に取り戻すこと、そのための制度設計の必要を提案していきたいようなのだけど、このあたりは読み進めてみないとよくわからない。


『ヤンキーと地元』の、「しーじゃとうっとぅ」という上下関係に規定された世間において、上のものが徹底的に下のものを搾取するというのはある意味では年金制度のような機能を果たしているようで、その破綻への道のりもまた似たものを感じる。下の者がしーじゃに上り詰めるころ、その特権にありつけるという保証も期待ももてないようななか、それでも上下関係だけが強固に維持され続けてしまうというとき、はたして誰が誰に手を差し伸べるのか。責任は、どこに問うのが適切なのか。国も自治体も個人も貧乏で、誰もかれもが助けを求めているように思えてくる。


今朝も寒さで起き上がれなかったので弁当を持ってくることができなかった。ドラッグストアとコンビニと飲食店しかない街を歩きながら途方に暮れる。どこもじわじわと値上げを続けていく結果、ワンコインで満腹できるお店が本当にない。あってもそこには喜びがない。チェーン店が悪いのではなく、規模の拡大に伴って損なわれるものが大きすぎるという構造そのものになにか重大な誤りがあるように考えてしまう。仕方なくなか卯に入っていちばん安いセットを注文する。これも、朝寝坊した自分の責任という思いがあるが、はたして本当にそうだろうか。安心して弁当を忘れることもできない、選択の余地のなさにこそ問題があるのではないか、いや、しかし。