2017.05.16

最近は毎晩体重を測る。

数百グラムのブレは当たり前のものだと実感する。

いまは48キロと49キロの間を行き来していて、痩せすぎていて、

流石にここまで痩せると体調がいまいちだ。

普段は52キロから55キロの間で落ち着いていて、

いつも具合が悪いときはだいたい50キロを下回っているときで、

そういうときはにわかに運動したり買い食いをしたりして体重を戻す。

 

今回の痩せはなかなか体重が戻らなくて、

軽いストレッチとプロテインの効果で代謝が良くなっているからかもしれない。

引き締まるばかりで一向に厚みを持つ気配がない。

 

自分の体のうまくいかなさには、困る。

 

クリス・プラットみたいなわがままボディになりたい。

彼と同じようにアイスクリームに溶けたアイスクリームをかけて食べていれば

いつか彼のようになれるだろうか。

2017.05.11

暑くて寝苦しい日が増えてきた。

寝苦しいので上を脱いで寝てみた。
おなかが弱いので腹巻だけする。
半ズボンに腹巻という見た目はほんとうに情けないけれど、
これがとっても快適なのだ。

上裸で過ごすときに思うことは、上裸はあるとき、全裸よりも
心理的なハードルが上がるということだ。
あるときというのはトイレのときだ。
便座に座るためズボンを下ろす。
このとき上裸であると、実質ほぼ全裸となる。
全裸くせに、足元にだけくしゃっと丸まったズボンとパンツがある。
これは、足元に何もない全裸のほうがまだ潔く、人間らしいように感じさせる、
圧倒的な情けなさというか心細さというか、
とにかく自分があまりに無防備であるという気持ちにさせられる何かがある。

よくヤクザ映画なんかで、敵が用を足しているときに襲い掛かるみたいな描写があるけれど、
全裸の足元にズボンとパンツがあるこのときほど、
ひとは用を足すときあまりに無防備であることがはっきりと現前するときはあるまい。
全裸であればすぐさま逃げ出せるのに、
なまじ足元にパンツとズボンがあるのだから、
何をするにもまずはそれらを履かなくてはならない。

ぼくはまるで世間を知らない甘ちゃんのまま、
通用してるかどうかはともかくなんとか静かに世間で生きている。

こういうとき、世間とは全裸の足元に丸まっているズボンやパンツなのではないかと思う。
ぼくはともかく下を履かなくちゃと神経質に気を付けているのだけれど、
ほんとうはまず、上を着るべきなのかもしれない。
上を持っていないのなら、もういっそ全裸のほうがいいのかもしれない。

中途半端に常識を持ち、中途半端に非常識だから、
よきサラリーマンにもよきアウトローにもなりきれないまま、
なんとなく毎日会社に行って、なんとなく毎日つぎの遊びのたくらみをして、
何者でもないままやり過ごしているのかもしれない。
着るのか着ないのか、はっきりするべきなのではないか。

今年はかわいい弟と妹が、
ふたりは双子なのでいつも並べて描くときどちらを先にするか悩ましくて面倒なのだけど、
とにかくうちのかわいい二人が就活の年で、
「何者でもない自分」に対しての戸惑いやじれったさを感じている様を、
ネット越しになんとなく感じ取っている。

思い返すと僕は就活中、「自分は何者でもない」なんてこと考えてもいなかった。
自分の劇団でするお芝居は最高だったし、
充分な数の人間から好かれている実感があったから、
ぼくは「自分は自分」だと自分で言い切れるだけの図々しさを持っていた。

だから、「自分は何者でもない」と感じ始めたのは、
むしろ就活の終わった後、社会人になってからだった。
お芝居をする余裕をがんばって作り出さなくてはいけなくなり、
結果を出せなかったり社交性が乏しかったりするとすぐに嫌われる会社に通ううち、
「自分は何者でもない」というふうに、しょげることが多くなった。
社会側から自分を見れば、謙虚になったとか、身の程を知ったとか、そういうふうにも言えるだろう。
就活中からそういうふうに、自分を別に求めてもいない社会の側から自分を見ることをして、
ちゃんと落ち込んだりできるというのは、とっても凄いことだ。

読んでるかどうか知らないけれど、君たちはとってもすごい。
なんというか、外に出るときはちゃんと服を着ようとしている感じがすごい。
えらい。
兄は、服の着方がこれであっているのか、いまさら自信がなくなってきたよ。

けれども、たぶん、死ぬまで「これでいいのかなあ」と
中途半端に不安なまんまなのだと納得しているし、それでいいとも思っている。

「自分は何者でもない」ことを納得しながらも、「自分は自分」という図々しさもなくならなかったいま、
はっきりと言えることがある。

ほとんどのことは、はっきりさせなくてもいい。

就活中は、世の中決めなくてはいけないことだらけだと思うかもしれない。
でも、大体の人は決めるふりをしているだけだ。
誰一人、はっきり決めることなんてできっこないのだ。
みんな嘘をついているんだよ。
自分の気持ちなんて、明日の天気ひとつであっさり変わる。
社会に出たら白か黒かなんて、大嘘だ。
就活は、確かに白か黒かはきはき答えるゲームかもしれない。
でもそんなのゲームなんだから、コマンドが白か黒かしかないゲームにすぎないのだから、
どっちのボタンを押すほうが有利かなんて、練習で身に付く勘や慣れだ。
そのボタンの選択に、いちいち「自分」を持ち出す必要なんてない。
ましてやその選択のために「自分」のありようを決定するなんて、しなくていい。

仕事はたかがゲームだから、その人を作り上げる大切な要素の一つにはなるかもしれないけれど、
その人そのものになることはない。

はっきりしないなら、はっきりしないまま、やれることだけやらばいい。

就活は、自分の得意なゲームを探すお試しプレイみたいなものだ。
うまい具合に好スコアが出せて、みんなに喜んでもらえるようなゲームが見つかるといいね。
見つからなくても、ゲームはいくらでもあるし、なんなら自分で作ってもいい。
何者でもないっていうのは、何者でもない分だけの可能性を持っているってことだから、
他人事だからちょっとうらやましくもある。
そのころに戻りたいとは、ちっとも思わないけれど。

そろそろ昼休みが終わるので、何者でもないまま、
何かのふりをして仕事に戻ろうと思う。

2017.05.05

懲りずにのろけ話をします。

こころの繋がりなんて嘘だ。
奥さんの心はわからない。
だからと言って体が全部、なんていう日活ロマンポルノ調の偽悪的ポーズを決めるのも嘘だ。
こころでも体でも、人は人と繋がれっこないのだから。

人との関わりは、理解だとか、触れ合いだとか、そういうものではない。
他人どうし、決して分かり合えないし、触れることなどできやしない。
そこにいる者どうし、他人と他人のあいだに生まれるあわい。
関係というのは、他人と他人の「あいだ」のことなのだ。

「あいだ」に立ち現れるものはさまざまだ。
緊張だったり、停滞だったり、安心だったりする。
だいたいの「あいだ」の様子はうまく言葉で言い表せない。

奥さんと僕との結婚はすごくいい。
それは奥さんと僕との「あいだ」の具合が「なんかいい」ということだ。

たとえば恋人だったら、「あいだ」には緊張があったほうが刺激的だしセクシーだ。
けれどもまいにちを過ごすには緊張ばかりじゃくたびれてしまう。
周りを見ていると、連れ添う人との「あいだ」に緊張を求める人は多い。
「結婚してもドキドキしていたい」なんていうのがそれで、
ドキドキするとは動悸がするということだ。
動悸は緊張によって引き起こされる。

僕は最近、そういうお互いの鼓動のリズムを乱し合うような、
駆け引きみたいなものを楽しむことが無理になってきた。
ただでさえ不整脈気味なので、できるだけ大人しくしていたい。
一つも脈打たなければものすごく安定するだろうけれど、それはもう死んでる。

奥さんと僕との「あいだ」に緊張がないわけじゃない。
けれども、それだけじゃないし、マンネリなわけでも、
安心しきってるわけでもないし、なんとも言えない。

なんとも言えないけれど、最高に「なんかいい」のだ。

たまたま奥さんと僕との「あいだ」が、お互いにとってそうだっただけのことで、
この「なんかいい」には、こころも体もあんまり関係ないような気がしている。

初対面ですでに「この人とは合わないな」と直感するのと同じことなのだと思う。
僕はふつうに過ごしていると「この人とは合わないな」ということばかりだ。
だからこそ余計に奥さんといるのが好きなのかもしれない。

最近は、奥さんとは別の種類の「なんかいいな」を「あいだ」に感じることのできる数少ない友達との遊びに、奥さんを連れていくことが増えて、それがとても嬉しい。「なんかいい」人たちといると、自分の「なんかいいセンサー」のハードルがぐんと下がるのを感じる。そうなってくるともう、みんな「なんかいい」ように見えてくるから調子がいい。

この「なんかよさ」をいちいち小分けにして考えていくのは
べつに誰も得しないし、僕自身興味がないのできょうはここでおしまい。

だいたいのことは、「なんかいい」でじゅうぶん。

 

2017.05.04

前のブログで「結婚がいいものなんじゃなくて奥さんと俺が最高なだけ」
というようなことを書いたら、奥さんから強い共感を得た。

それで調子に乗っていないといえば嘘になるので、もうすこし結婚の話をしようと思う。

もう一度ことわっておくけれど、これは「奥さんと僕」の話でしかないので、
みんなにとって結婚というのはこういうもの、というわけでは決してない。

結婚というのは単なるツールでしかない。
言葉や洋服やお金と同じように、便利な嘘のひとつだ。

いま思い出したから余談として注釈をもう一つ入れるとするならば、
僕の好きな作家の川上未映子さんが「奥さん」という呼称への非を表明していて、
言っていることはその通りだと思ったのだけど、僕は奥さんを奥さんと書く。
それは僕らの共有する結婚に至る文脈の一つに
小さなお茶会』というかわゆい漫画があるからだ。
僕にとって「奥さん」という言葉は、その言葉自体の持つ歴史や社会規範みたいなものとはなんら関係なく、徹底して『小さなお茶会』をルーツとしている。
それでも「奥さん」という呼称はダメだというのなら、そうかそれはちょっと悲しいなと思う。そして、こういうふうにされてもいない糾弾を妄想しているだけで、奥さんと僕の私的文脈を蹂躙する「社会的なもの」が怖くなる。
結婚というのはどうしたって、「社会的なもの」であるのだけど。
個人的には自分たちの結婚について「社会的意義」やその必要を微塵も感じていない。

結婚というのは野球に似ている。
誰かにとってそれはお気に入りのドラマの開始時間を遅らせる鬱陶しいものでしかなく、
誰かにとってそれはいじめっ子の野球部員を思い出させる憎いものでしかなく、
誰かにとってそれは好きだった人が好きだったものであり、
誰かにとってそれは人生そのものだったりする。

結婚や野球を自分の中でどのような文脈上に置くか、ということは
たぶん個人の意志だけではどうにもならないことであって、
幼い頃のキャッチボールの思い出があるかどうかだとか、
生まれついた環境や、育つなかで出会う人たちとの関係のなかで、
そのツールがひらく体験の可能性がどれだけ豊かなものであったかということが
その人の「結婚」や「野球」との向き合い方に、かなしいくらい根深く影響するだろう。

何度でもいうけれど、「結婚」も「野球」もただのツールだ。
誰かにとっては夢いっぱいのそのツールは、
誰かにとっては思い浮かべるのも苦痛な代物だったりする。
みんなが便利に快適になれるツールというのはなかなかないし、
あったとしてそれはすこし不気味だ。

僕はたまたま最高に知的でやさしく仲良しな夫婦のあいだに生まれつき、
その二人がさっぱり野球に興味がなく、
人懐こいかわいい母と、社交的でない愉快な父であったことで、
こうして社交嫌いで人懐こい、かわいく愉快で野球にさっぱり興味のない人間に育った。

そしていつしかすっかり大人になってしまって、同じように「結婚というのは最高に知的でやさしく仲良しなもの」という偏見を持つ人と結婚をした。

奥さんと僕の結婚は、僕らの持つ「結婚」というツールへの偏見を、再生産したに過ぎない。だから、「結婚」というものが僕らとはまったく異なる文脈上にある人たちにとって、僕らの結婚話はいけ好かないのろけ以外の何物でもない。いや、これは単なるいけ好かないのろけなんだけれど。

 

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僕は「野球」や「プロレス」という言葉の持つ同調圧力に、憧れと拒絶感のないまぜになった気持ちを持つ。だからこそ、「まあ、気にはなるけどいまのところ自分には必要のないものだな」と何度も自分の気持ちを確認する。
「結婚」も野球やプロレスと同じくらい、「いや、それは自分はいいや」と平気で言えるものであっていい。
自分に関係ないものに、自分の何かを決められるなんて嘘だ。

しかし、野球はすごい。
結婚は二人でできるけれど、野球は九人も必要だ。
しかもその九人ひと組のつがいの間を行き来するたったひとつの球の行方が、
東京ドーム何個分もの人びとのゴキゲンを左右するのだから。
そういうの、憧れるなあ。
俺もカープファンになってみたい。
いや、まあ、ならないんだけど。

 

2017.04.27

会社勤めを始めて四年目になる。
さっぱり仕事を語る言葉を持てないままでいる。
大学で始めたお芝居については四年目ともなればしたり顔でしゃあしゃあと一席ぶてていたのだけれど。
やっぱり心底この仕事に興味が持てないでいるのかもしれない。

 

結婚して一年が過ぎ、今の奥さんと暮らし始めてからはそろそろ二年が経つことになる。
さっぱり結婚について語る言葉は出てこない。
結婚が楽しいのではなく、たんに奥さんと僕が楽しい人間だから毎日が楽しいだけのことだからだ。
僕らは最高、という話は、誰も面白くないからしないほうがいい。

 

仕事も結婚も、うまくいく秘訣なんてものはない。
あるとしても教われるようなものではない。
意識しないでもできることがたまたまうまくいくために必要なことだったとき、うまくいくものなのだ。


だから仕事や遊びがうまくいかないのは自分が他人より劣っているからでも、
幼稚園のころ「お前の頭ジャガイモみたいにデコボコだな」と言われた心的外傷がいまだ疼いているからでも、
きのう読んだひどいニュースに心を痛めているからでもなく、
他人とは苦も無くできることが違ったというだけのことなのだ。

 

苦もなくできることで食えていけたらいいんだけどな。
それはまだ見つからないから、とりあえず今日も会社に向かう。
見つからないままうかり勤め上げちゃったら、それはそれで儲けもんだ。

 

僕はたまたま苦も無く受験勉強ができて、苦もなく結婚できた。
おおきな苦労もなく得た大学生活は最高に楽しかったし、
おおきな苦労もないまま過ごしている結婚生活も最高に楽しい。
辛苦が人を成長させるかどうかは知らないけれど、辛いことや苦しいことはなるべくはないに越したことはない。

 

地道にレベル上げをしなくても、たまたま生まれたときにはすでに必要な魔法を全部覚えている。
そんなナンセンスが当たり前にありうるのがいまの人の世なのだ。
こういう人の世は、あまり気持ちのいいものではない。

 

たまたま現行のゲームに有利な初期設定で生れ落ちたから、
そのまま後期資本主義という、パワーバランスもエンカウント率も偏りすぎていて

もうほぼどん詰まりのクソゲーで遊んでいるけれど、
そして、死ぬまでここで遊ぶんでもしょうがないかな、とも感じているけれど、
クラッシュ・バンディクーとして生まれてきた人にもRPGとして人生を歩ませるようなことは本当にやめてほしいと思う。

 

参加するほか選択肢のないゲームほど、苦痛なものはない。
小学二年生のころ、休み時間のドッヂボールが嫌で嫌で仕方がなかった。
けれどもみんな「友達」だから、参加するほかなかった。
ほんとうはそんなことはなくて、参加しなくてもよかった。
あのころの休み時間はほんとうに無駄だったと思う。
いつからか休み時間は教室で漫画を描いていた。
そのほうがずっと楽しかった。
ドッヂボールに興じる「友達」たちを軽蔑しないで済むようになったから。

 

人には向き不向きがある。
皆にできても自分にはできないこともある。


自分に向かないものを、人は軽蔑したり攻撃したりするみたいだ。

 

もしかしてあたし、この人の学歴コンプレックスや結婚コンプレックスのはけ口とされているんじゃないかしら。
最近そう思ってしまうようなことが続き、ちょっとしょげている。

 

あの人たちは受験や結婚というゲームから仲間はずれにされたのだろうか。
そもそも得意じゃなかったのだろうか。
ゲームから降りたくても降りられないのだろうか。
どうであれ、それはとても苦しいことだ。
苦しいならほかのゲームを始めちゃえよ。こんなゲームやめちゃえ。
そう思わないこともないけれどそう思うことは嘘になる。
人のゲームを邪魔する人のことまで、真剣に考える気にはなれないからだ。

 

大学に行ったのも、結婚したのも、たまたまラッキーな状況に生まれつき、
たまたまそのラッキーを逃さなかっただけのことで、あんまりそのことに罪悪感を持ちたくないと思った。

 

2017.04.18

前の土曜日に好きな先輩とかわいい後輩が結婚式を挙げて、それはとてもいい式だった。
つい嬉しくなって朝まで飲んでしまった。
日曜日もお酒を飲んで、二日酔いと低気圧できのうは瀕死。
ようやく人の心を取り戻したきょうは自分がもう結婚していることについて考えている。

 

結婚しても僕は相変わらずだけれども、相変わらずというのは、お構いなしにいつだって気まぐれに変わり続けているということだけれども、それでも結婚したことで大きく方向転換したことがあるとするならば、それは「構われなくても大丈夫になった」ことだと思う。

「世界が僕のことを相手にしなかったとしても」みたいな、構ってちゃんの精一杯の強がり。
そういうものがなくなった。
こうやって、「自分」と「自分を見る/見ない他人」でできている「世界」を手放せたことは、とてもよいことだ。


自意識は飽きもせず過剰なままだけれど、ぼくとまったく関係のない世界との距離の取り方が、ずっと気持ちのいいものになったように感じられる。

自分に引き付けることのないままに考えられることがうんと増えた。

 

ぜんぶをぜんぶ、自分と関係のあることとして感じなくてもいいんだ。
感じないことに後ろめたさを感じる必要もないんだ。
そういうことはずっと思ってきたことだけれど、自分ごとではないことを自分ごとではないままに、誰かのこととして考えられるようになったというのは、とっても嬉しい進歩なのだけれどまだうまく言葉にできないな。

 

これは自分ごとだと思える、自分に関係のあることなんて、ほんとうにほとんどなんにもなくて、だからこそ、ようやく自分ではない誰かの「世界」への興味がわいてきた、とでも言おうかしらん。

僕の生活と、結婚した先輩たちの生活はほとんど関係ないけれど、僕は先輩たちのあきれ返るほど楽しい毎日を本気で祈ることができる。それは僕らが関係ないからこそなのだ。

 

ああそうか。
「羨ましい」という気持ちがなくなっちゃったのかもしれないな。
「羨ましい」というのは、「ほんとうだったら自分も享受できたはずの、手に入れられなかったものを他人が持っている」という感覚だ。
おおきな欠乏の感覚があるとき、気をつけていないと「自分の持っていないもの」を通してしかものを見られなくなってしまう。

 

ずっと人に羨まれるようにいきたいと思っていたけれど、誰のことも羨ましがらずに生きたいってことだったのかもしれない。
これでようやく、他人ごとを他人ごとのままに真剣に考えることができるだろう。

2017.02.12

ふた晩続けて夜明け前にこわいくらい冴え冴えと目が覚めて、カーテンの隙間からうっすらと射す光が青っぽく照らす奥さんの輪郭の静かなことに、気持ちの凜と張り詰めるのを感じる。
張り詰めているのはお腹で、一昨日から下痢っぽい。
夜中に起きだして便座の上で丸くなるのは、なんだか生きている情けなさや逞しさが凝縮されているようだ。

(昨日の夜明け前のこと)