2017.05.04

前のブログで「結婚がいいものなんじゃなくて奥さんと俺が最高なだけ」
というようなことを書いたら、奥さんから強い共感を得た。

それで調子に乗っていないといえば嘘になるので、もうすこし結婚の話をしようと思う。

もう一度ことわっておくけれど、これは「奥さんと僕」の話でしかないので、
みんなにとって結婚というのはこういうもの、というわけでは決してない。

結婚というのは単なるツールでしかない。
言葉や洋服やお金と同じように、便利な嘘のひとつだ。

いま思い出したから余談として注釈をもう一つ入れるとするならば、
僕の好きな作家の川上未映子さんが「奥さん」という呼称への非を表明していて、
言っていることはその通りだと思ったのだけど、僕は奥さんを奥さんと書く。
それは僕らの共有する結婚に至る文脈の一つに
小さなお茶会』というかわゆい漫画があるからだ。
僕にとって「奥さん」という言葉は、その言葉自体の持つ歴史や社会規範みたいなものとはなんら関係なく、徹底して『小さなお茶会』をルーツとしている。
それでも「奥さん」という呼称はダメだというのなら、そうかそれはちょっと悲しいなと思う。そして、こういうふうにされてもいない糾弾を妄想しているだけで、奥さんと僕の私的文脈を蹂躙する「社会的なもの」が怖くなる。
結婚というのはどうしたって、「社会的なもの」であるのだけど。
個人的には自分たちの結婚について「社会的意義」やその必要を微塵も感じていない。

結婚というのは野球に似ている。
誰かにとってそれはお気に入りのドラマの開始時間を遅らせる鬱陶しいものでしかなく、
誰かにとってそれはいじめっ子の野球部員を思い出させる憎いものでしかなく、
誰かにとってそれは好きだった人が好きだったものであり、
誰かにとってそれは人生そのものだったりする。

結婚や野球を自分の中でどのような文脈上に置くか、ということは
たぶん個人の意志だけではどうにもならないことであって、
幼い頃のキャッチボールの思い出があるかどうかだとか、
生まれついた環境や、育つなかで出会う人たちとの関係のなかで、
そのツールがひらく体験の可能性がどれだけ豊かなものであったかということが
その人の「結婚」や「野球」との向き合い方に、かなしいくらい根深く影響するだろう。

何度でもいうけれど、「結婚」も「野球」もただのツールだ。
誰かにとっては夢いっぱいのそのツールは、
誰かにとっては思い浮かべるのも苦痛な代物だったりする。
みんなが便利に快適になれるツールというのはなかなかないし、
あったとしてそれはすこし不気味だ。

僕はたまたま最高に知的でやさしく仲良しな夫婦のあいだに生まれつき、
その二人がさっぱり野球に興味がなく、
人懐こいかわいい母と、社交的でない愉快な父であったことで、
こうして社交嫌いで人懐こい、かわいく愉快で野球にさっぱり興味のない人間に育った。

そしていつしかすっかり大人になってしまって、同じように「結婚というのは最高に知的でやさしく仲良しなもの」という偏見を持つ人と結婚をした。

奥さんと僕の結婚は、僕らの持つ「結婚」というツールへの偏見を、再生産したに過ぎない。だから、「結婚」というものが僕らとはまったく異なる文脈上にある人たちにとって、僕らの結婚話はいけ好かないのろけ以外の何物でもない。いや、これは単なるいけ好かないのろけなんだけれど。

 

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僕は「野球」や「プロレス」という言葉の持つ同調圧力に、憧れと拒絶感のないまぜになった気持ちを持つ。だからこそ、「まあ、気にはなるけどいまのところ自分には必要のないものだな」と何度も自分の気持ちを確認する。
「結婚」も野球やプロレスと同じくらい、「いや、それは自分はいいや」と平気で言えるものであっていい。
自分に関係ないものに、自分の何かを決められるなんて嘘だ。

しかし、野球はすごい。
結婚は二人でできるけれど、野球は九人も必要だ。
しかもその九人ひと組のつがいの間を行き来するたったひとつの球の行方が、
東京ドーム何個分もの人びとのゴキゲンを左右するのだから。
そういうの、憧れるなあ。
俺もカープファンになってみたい。
いや、まあ、ならないんだけど。