2017.11.03

昨晩は奥さんが帰ってこない日だったので仕事終わりに映画館に行った。

楽しみに邦訳を待っていたトーマス・トウェイツの『人間をお休みしてヤギになってみた結果』はもちろん最高で、映画館のロビーで読み終えたときの僕の顔はふにゃふにゃになっていたと思う。

映画は『ゲット・アウト』を見た。これぞ映画という顔、これぞ映画という音。トリッキーなアイデア一発勝負と見せかけてストレートな演出の鮮やかさでみせてくる映画。うんうん、映画はこうでなくっちゃ。大満足で映画館を出た。

帰ってすぐテレビをつけて録画していた「100分de名著」の歎異抄の回を流しながら前日の豚汁を温めなおしてうどんを投入。夕飯を済ます。
楽しみにしていた本にも映画にも満足してしまっていたので、食後に何かしようという気持ちにならない。とりあえずSMAPのやつを流しておく。面白くはない。けれども楽しそうにわいわいやっているのをだらだら眺めて楽しむ、もしかしたら何かすごいことが起こるかもしれない、みたいなわくわくした感じは懐かしいような気もした。でもやっぱりありふれているのかもしれない。

奥さんがいないとつまんないな、と思う。
生きがいは、寿命が300年あっても遊びきれないだけの文化があるのでいくらでもでっち上げられる。けれども生活のしがいはもうすこし個人のサイズやくせに合わさってしっくりくるものでないといけないらしい。そして僕の生活のくせとして、しっくりくる運用へのやる気スイッチはしっくりくる誰かといないと入らないようだ。難儀な性分をもって生まれてしまったものだと思う。文化に遊ぶ元気は、ある程度しっくりくる生活がなければ湧いてこないから。生活をなくしてしまうと、文化に生きるしかなくなる。けれども僕は文化でご飯を食べていけるほど器用でも極端でも元気でもない。
そんなことを考えていたらこれは今朝気がついたのだけど弁当箱を洗うのを忘れた。
忘れているからさっさと布団に入って夜電波をタイムフリーで聴いた。まだ寝つけなかったのでリアルタイムでメガネびいきを聴いた。
雨が降ってきた。
これじゃあ余計に寝られないなと思ったところから記憶がない。

今朝起きて弁当箱を洗い忘れたことに気がついてしょげた。
でも洗えばいいだけの話だったので洗ってまたご飯を詰めて会社に行く。