第n回私たちは最高会議会報(2018.09.07)

昨晩開催された「第n回私たちは最高会議」には奥さんをはじめ私自身にもご参加いただき、たいへん実りのある議論が活発になされました。なかでも「私たちはツーカーではないという前提を維持しているので最高」という奥さんの発言には会場全体からの賛意の声が次々に上がりました。

夫婦に限らずあらゆる人間関係は、ともかく言語化というコストを嫌う傾向にあります。ツーと言えばカー、エジソンと言えばえらいひと、けものフレンズと言えばたつき、そんなことは言わずもがなで、言語化など野暮というもの。そういった傾向が根強く存在するのです。

このたびの「第n回私たちは最高会議」でなされたのは、こうした傾向に対する批判です。「いやいやいやいや、言わなきゃわかんないっしょ」というツッコミを、私たちは世に問いたい。

人間関係において、「察することができない」というのはなにか人間性の欠陥であるとか、はたまたコミュニケーションの怠慢だと見なされることが散見されます。曰くお前ちょっとは空気を読め、と。常識を持て、と。普通に考えればわかるだろ、と。こうした物言いに対して、私たちは断固として言い返したい。わかるわけねえだろ。言語化を怠ることこそコミュニケーションコストの未払いに等しい行為であり、そのコストカットは犯罪的な不当であると。
コミュニケーション不能の責は、「察する」ことができなかった受注側ではなく、充分な「言語化」を行わなかったクライアント側に求められるべきものでしょう。

こうした言語化に対する不当なコストカットの意識は、非言語コミュニケーションへのロマンチックな幻想に深い根を有しています。
スラムダンク』や『ダイハード』のクライマックスのような、「俺たちのあいだに言葉は要らない」というロマンチックな幻想に、人はとにかく魅了されがちです。言葉にせずとも通じ合える関係こそが、いちいち言葉にしなければならないような関係よりも上等だと感じてしまうのです。ちゃんちゃらおかしい話ですね。
云十年連れ添った相手だろうが、左手は添えるだけの仲間だろうが、共にテロリストと戦った相手だろうが、十全にわかりあえることなど、絶対にありえません。他人は、どれだけ親しくなろうとも、理解することなどできないのです。わかりあうことのできない他者と、それでもどうにか折り合いをつけていかなくてはいけないのがホモサピエンスの現実です。諦めましょう。折り合いをつけていくためには、お互いにそれなりのコストを払わなければならないというのもホモサピの宿命です。
なにかを求めるとき支払が発生するというのは、経済だけの道理ではないのです。もしくはあえて、個人間のコミュニケーションとは貨幣でなくて言葉という道具を介した経済活動であると喩えてしまってもいいかもしれません。どちらか片方がふんぞり返って、もう片方に莫大なコストを押し付けるような不平等は、経済であれ人間関係であれ是正されるべきではありませんか。不当な低賃金で人を使い潰してはいけないのと同じように、不十分な言語化のもと相手に「察する」コストを押し付けることもやってはいけないのです。
違法企業a.k.aブラック企業が「やりがい」なんていう言葉で搾取を正当化することと、「あいつは言わないでもわかってくれる」という甘ったれたロマンチシズムは同根です。どちらも不当な搾取なのです。

さて、ここまで読んで「けものフレンズと言えばたつき監督に決まってるだろ!」「そもそも自分でもうまく言葉にできていないのが苦しいのに、言語化を怠るなとか、それこそ弁の立つものの特権意識ではないか!」とお怒りの方もいるでしょう。そうした方はご自分にとってまずご自分自身が他者であるとお考えいただきたい。先だってお伝えした通り、他人とは決して分かり合えません。ご自身と分かり合える日も来ないのです。だからこそ、ご自身を苦しめるもやもやとした感情に対して、果敢に言語化を試みることが、なによりもご自分自身に歩み寄っていく手段であるのだと私は考えます。自身の自身に対する怠慢は、一見自由気ままに見えるフリーランスのほうが、サラリーマンよりよっぽど劣悪な労働環境で忙殺されているケースと重なって見えます。身体が何より資本ですから、どうぞご自愛ください。

今回の「私たちは最高会議」会報(本論)は、あまりに人間関係を経済の論理で語り過ぎているという批判はもっともなものです。ですが、経済の論理で語ってみても、非言語コミュニケーションの称揚は搾取の温床であるということが本論の趣旨であり、それ自体はポスト・逃げ恥の現在においてそこまで目新しいものでもありません。

「やりがい」という虚言でなく「納得のいく賃金」や「快適な労働環境」をきっちり整備してくれる優良企業への褒めもまだ十分とは言えません。もっと褒め称えられるべきです。
同様に、「言わなくてもわかる」なんていう幻想よりも、「わかってほしいから、言語化を怠らない」という態度を共有できる関係も、もっと褒め称えられるべきでしょう。ロマンチックは恥ずかしいだけで役にも立たないのですから。話し合おう!わからないのだから!話し合える私たちは最高!

それでは、また「第n+1回私たちは最高会議」でお会いしましょう。
ごきげんよう!