2018.03.13

きのうの夜は案の定引越しの疲れで動けなくなり、家に帰る前にマルイでご飯を食べ、それでも体がだるかったので店を変えて甘いものを食べた。
甘いものを食べるとてきめんに元気になった。

実家からのラインで結婚二周年であることに気がつく。
いや、忘れていたわけではない。
引越しをしながら「どうしてこう節目節目で激動なのか」というような話を散々していた。
たぶん散々話していたからこそ当日に思い出す余地がなくなってしまっていたのだと思う。
ともかく二年だそうだ。
お互い他人とこれだけ長い期間いっしょに過ごすという経験がないので、これはすごいことだねえと言い合った。しかも基本的にはゴキゲンなのだ。ともにゴキゲンであろうと工夫していく我々はえらい、かわいい、すばらしい、と互いを称えあった。
これまでのお互いの遍歴を思うと、自身はゴキゲン体質なのになぜだか不機嫌でいたい人たちに懐きがちで、そのせいで需要と供給のてんでちぐはぐな関係を築いてしまうことが多かった。
それを思い返すとお互いにゴキゲンを目指せるいまはなんてイージーモードなんだろう。

思うに僕らは持ち合わせたゴキゲンをおすそ分けしたくなりがちな体質だ。
これまでは一対一の関係で、しかも不機嫌でいたい人たち相手にゴキゲンを押し売ろうとして疲弊してしまっていた。結婚して、いまこうして共にゴキゲンを量産出来る体制が整ってきたことでこの「おすそ分けしたがり」がまたむくむくと頭をもたげてきたのではないかという話もした。
学生時代この「おすそ分けしたがり」は不機嫌でいたい人たちとの相乗効果で自らを「メンヘラ製造機」にするという結果を生んでいた。今思うとこのメンヘラという言葉の安易さも含めて「時代だ……」という気持ちになる。
どんな状態のことを「ゴキゲン」と定義するのかというところからなんとなく共有できそうな人たちに向けて、ひかえめにゴキゲンを差し出す。いまはそのくらいのやり方を模索できるんじゃないかなと思っている。
「ゴキゲンのおすそ分け」という独りよがりな押し売りビジネスの業態はそのままに、個人事業から共同経営へと移行していったわけだ。かなりたちが悪いぞこれは。

そろそろまたお芝居をやりたいとも思っていて、それも不機嫌に屈しないための実践というようなものになるだろう。
僕は実際にみたことはないのだけど国だとか社会みたいなものがあるらしく、そうしたものを語る言葉を目にすると、決してゴキゲンとは言い難い状況が確かにある。そんななか「既婚者正社員男性」という、あまりに「正しい」自分の属性に引け目を感じることがある。ぼくのこと「正しさ」は歪なシステムの不正な利益を享受していること、つまり現行のシステムを増長させることに加担しているのではないか。
答えは当面出そうにない。
何度も言うけれど奥さんと僕が最高なのは結婚が最高だからではなく奥さんと僕が最高だからだ。けれどもたまたま正社員であることやたまたま男性に生まれついたことに対して僕はまだ言葉を持ち合わせていない。たぶんこれは偶然を肯定するという安易な結論に落ち着いてはいけない。偶然自体は偶然でしかないのでその正否を問うのはナンセンスだろう。ただ、偶然によってあまりに大きな不便をこうむる制度はやっぱり改修したほうがいいと思うのだ。
「制度が最高なわけでなく自分たちが最高なだけ」と気持ちよく言い切るためにも、制度によって誰かの最高が邪魔されるようなことを黙認してはいけない。
そのためにも一度制度というものがべつに大したものではないということを可視化させたいような気がする、というかお芝居を通じてやってきたことはずっとそんなようなことなようにも思う。
反制度みたいな態度は、結局制度に軸足を置いている時点で制度の論理の外には出ていかれない。
制度というものの性質をメリットとデメリットの区別もなく一個一個いちいち点検していくことで、制度というものの外でのあり方も見えてくるかもしれない。
だいたいこっちかあっちかみたいな論争が始まっちゃった時点でどっちもどっちなのだ。
こっちとあっちを分けてしまった初期設定から再点検したほうがいい。
これはお芝居に限らずつねに気を付けていたい。

そんなわけでお芝居の計画をもやもやと描いていて、今回は「たくましい寂しさ、ふてぶてしい切なさ」ということをずっと考えている。
制度から漏れ出てしまったものを、うまく言語化できないからといってないものにしてしまうのはなんだかおもしろくないのだ。
ひとは寂しくてもたくましくあれる。そのとき寂しさもたくましさもどちらもほんとうだ。
切ない気持ちに浸り切りながらもふてぶてしいというのもある。
なにかひとつの言葉ではっきりと名指せるような属性も状態も、ないのだ。
つねにいくつもの、ときには相反するような要素が糠床状に共存しているのが常だ。
ゴキゲンになるように僕らは糠床状のそれをかき混ぜるけれど、できあがったものを万人においしいと言ってもらう必要は感じない。
けれども糠床づくりを規制するような決まりや雰囲気ができあがってしまったとしたら、ぼくらはこっそり自分たちだけの糠床特区を立ち上げるだろう。
僕にとってお家やお芝居というのはそういう場所なのかもしれない。
いいものができたら、おすそ分けしたい。