2020.07.22(1-p.170)

ルチャ・リブロの青木さんの来月のトークを書籍付きで予約していて、予約してすぐに届いた夕書房の『失われたモノを求めて』を読み始める。いい。いい本だ。「出来事」に偏重しがちな風潮を相対化して、再び「モノ」としての作品を可能にするための道筋を探る。 流動的に消費されるモノでなく、ある一点を仮留めするようなモノ。美術館で添えられる解説文を読んでコンテクストを共有しないままでも、モノそれ自体から得られるもの。それを取り戻すための論理。

ずっと気になりつつも難解そうでまだ買っていない『かたちは思考する』も改めて読みたくなってくる。

 

モノは自分と他の人との異なる体同士を、異質なままに、媒介する。分離しながら接続するということをやってのける。無媒介で他者と出会うことは、過度な全体化、同一化の危険を伴っている。モノは、接続過剰を回避しつつ、孤立を保ったままに他者と出会う契機になりうる、というようなことが書かれていって、好きな感じの話だった。

こういう議論で思い出すのはやっぱり『気流の鳴る音』で、万物を分節化せずに全体として知覚する〈明晰〉は、やりすぎると狂気に陥ってしまう、やりすぎないように、あえて〈明晰〉のレベルを下げる調整弁としての〈愚かさ〉がとても重要なのだ、というような話が、僕の主だった行動指針のひとつになっている。

ほどほどのいい加減さが、とても大事。

 

マルクスを読みながら物象化──要するになんでもかんでもモノ化しちゃうということ──について考えていると、モノの悪い面ばかりが目立ってくる気がしていたけれど、モノはべつに悪いものでもない。むしろフェティッシュであることは、モノすらも非正規雇用的な流動性を帯びてくる時流への抵抗になりえる。おこだわり。個人的な執着をこそ、いま取り戻さなくてはいけないのかもしれない。