2020.07.28(1-p.170)

午前中は猛然と仕事をこなしつつ、『ユリ熊嵐』を一気に観る。非常に好みの作品だった。僕は断絶を無化するようなナイーブな関係称揚はノれなくて、断絶があるからこそ他者と出会うことができる、という認識の方に立ちたかった。それで思い出すのは千葉雅也の荘子で、『動きすぎてはいけない』だか『意味がない無意味』だかでも書かれていた気がするがそこはやっぱり『デッドライン』で、自他を分けるラインが引かれているからこそ、モノとしての他者と隣り合うことができる。これは『失われたモノを求めて』にも通じる主張で、どうやら池田剛介というひとは千葉雅也と仲がいいようだった。収録されている『ユリ熊嵐』論では、じっさい荘子が引かれていて、やっぱり! となった。

『失われたモノを求めて』に一貫している考えは、雑に一文でまとめるならばおそらくこうなる。──自閉していないと近接できない。

関係というものに偏重すると、関係の外側に対して苛烈な自己弁護ないし自己批判へと帰着するほかない。自己言及に帰着すると言う意味でこれは結局ロマン主義の域を出ることはないし、じっさい孤立した主観の優位性とエビデンス主義とのグロテスクなキメラとしてのポスト・トゥルースに結果した。私がそうと信じているものを信じるものたちの共同体、その内部のみが「真実」である、というような。「真実」の共有というコト偏重の風潮に対して、池田は異を唱え続ける。そうなるくらいなら、モノに自閉してしまうほうがマシだ。なぜなら、モノになること、自閉することによって初めて、無関係なままに近接し、相互に干渉することが可能になるからだ。荘子胡蝶の夢や、濠水の魚のように、それぞれに自足したモノたちは、お互いにまったく異質なものだからこそ、その「近さ」によって遭遇し、自身に固有な場所を交換しうる。人と熊とを分かつ断絶の壁。まさにその場所において、人とクマとが出会い直せるように。

人間を人間扱いすること。それが一番大事でなぜか難しいのだと僕と奥さんはたびたび話題にするが、人間を人間扱いしないとは、人間をモノ扱いすることではないかもしれない、という予感を得る。人間扱いされない時、その人はコトとして扱われているのではないか。関係性の「透明な」構成要素として、あるいは関係性の円滑さを脅かす「排除」するべき瑕疵として。『ユリ熊嵐』で、鼻白むほど露骨な「女体」の描写が頻出するのも、アニメ鑑賞者は客体化された「女体」の特権的な鑑賞者であるというマチズモが安易に前提とされているからではない。他者の体を、自らと関係するコトとしてでなく、不可触のモノとして描くこと。それは、自分の側の論理に他者を引き寄せるのでなく、相手の側に自らを明け渡す契機として体=モノを捉えているからなのかもしれない。コトがそのコトに際して見たり触れたり考えたりする主体者の側からのエゴイズムの場だとすれば、モノとは疎通不可能な他者の倫理の場なのだ*。

まだまだ粗い思いつきだけど、なんだか面白くなりそうな予感がする。日記はこういう無責任なスケッチができるからいい。

 

*このモノ観からいうと、「女体」の鑑賞者というマチズモはやはり、他者のモノ化ではなく、他者のコト化なのだといえる。そこでは他者の体というモノではなく、そのモノとの遭遇というコトおよびそのコトに際して立ち現れる自身の興奮こそが主題であるのだから。モノに興奮することが「悪」だというのではない。疎通不可能な他者としてのモノを、自身の興奮というコトに矮小化することがイケていないのだ。コトの主体者としての自己をうっちゃり、自身もモノになること。モノ同士がたまたま近接し、相互に干渉し、重なり合う。それがエロいのだと千葉雅也はたぶん言っている。