2020.11.17(1-p.365)


アーレントマルクス』を読み終える。とてもいい本だった。アーレントの「世界」を制作する「仕事」の再評価、というのはそれこそ青木さんと百木さんのイベントのさいにセットでついてきた『失われたモノを求めて』でも中心に置かれていたアイデアで、僕はやはり唯物論者なのだろうな、モノ大好きだもんなという思いを強くした。
 
テーブルと椅子があって初めて人は食卓を囲むことができる。食事を準備し、楽しむことは生命維持に欠かせない反復運動という意味で「労働」であり、語らうことは「活動」である。アーレントが最上のものとした「活動」は、「仕事」によって作り上げられ、メンテナンスされてきた具体的なモノ=「世界」がなければ、そもそも現れるための足場がない。日々の生存を旨とする生命活動としての「労働」に塗りつぶされてしまったら、「活動」する暇もないどころか、「世界」が先細っていく。僕達が、異質な他者として、複数性を損なわないままに出会うためには、流動的な状況のなかに打ち立てられた安定した場所、「世界」が必要なのだ。僕たちはモノがなければいることも、いつづけることも、いかたを変えることもできない。「活動」や「労働」は、その性質からして儚い。常にプロセスとしてしかありえないのだ。だからこそ、その儚さを仮留めし、行為者よりもすこしだけ長持ちするモノが必要になってくる。
僕は構造主義者だとも自認しているが、ここでいう構造とは、アーレントの「世界」、具体的なモノのことだと言っていいかもしれない。
 
そのままの勢いで久しぶりにマルクスを開く。よお、久しぶりだな。相変わらず悪態がすごいなあ。