2020.02.12

昨晩から非常に具合が悪く、でも『ドロヘドロ』を楽しく見たり、同居人特製のパフェを食べたりと楽しく過ごしもした。寝る前に足を揉んでもらって、僕は足を揉まれると大きな声が出るから恥ずかしくてよそで揉んでもらうことができないでいる。おかげでだいぶマシになって、今朝はもう足の指先の違和感は消えていたが気圧は今日からぐんぐん下がるらしく、体調はすぐれなかった。『未明の闘争』でも妻や猫の体調と天気とが連動していることに気がつく、若いころはそんなこと考えもしなかったが今では当然のように天気が気になる、というのが出てきて、僕は六年だか七年前はここを読み飛ばしていたが今はよくわかる、わかるというか他の部分の見知った風景の描写と同じようにそれ知ってるというような気持ちで読んだ。この小説はおっさんの女性観がわりときつく、それは時代とかでなく刊行当時からここは結構きつかった。というか僕が読んできたほとんどの小説はおっさんの女性観がきつくて、だから一時期僕は日本の小説はほとんど読まなくなっていた。星野源は音楽だがとにかく星野源に至ってもなおそのきつさは依然としてあるようで、それが本当にきつい。僕はラテンアメリカ文学の三〇センチの巨根とかは楽しく読むが、日本の小説の秘宝館的な臭いには耐えられない。これはもしかしたら距離の問題で、身近にあってよく知っているように思える文化のマチズモはキモいが、遠い異国のマチズモはただバカらしいものとして相対化できるということだろうか。近くのものにしか生々しさを感じられない。先ほど「秘宝館的な臭い」と書いたけれど僕は鬼怒川秘宝館の閉館前に駆けこむくらいには秘宝館は好きで、とにかくバカらしいところまで誇張されていればいいのかもしれない。キャンプな性欲。そうではなくて、対象に対する幻想をまるで事実のように語ること、客観的態度に擬態した主観的感覚に対して嫌悪感があるのかもしれない。アカデミー賞のニュースを追っていて、自分とまったく関係のない個人たちの功績に対して「同じ日本人として」とか「同じアジア人として」とかで誇らしさを感じることのバカバカしさについて考えていたのだけど、その軽薄さはもしかしたら「同じ人間として」というヒューマニズムまで突き詰めてしまえば悪くないものなのかもしれない。ラテンアメリカの性欲を現実のものとして考えられない僕もまたある意味何かしらの同質性を根拠に共同体を幻想し、そこに帰属しているのだろう。こことよそを分けることは、やるなら個人にまで徹底するほうがいいし、そうでないなら分けないほうがいい。徹底した個人主義も、いい加減な仲間意識も、どちらも他者にちゃんと敬意を払おうというところに決着するのであれば健康だ。徹底したい気持ちと仲間外れを恐れる気持ちが中途半端に混在しているからこそ気持ちの悪いことになる。とはいえこの二極だって二極と書いたけれどたった二つの極なわけでもなく、比重を置けそうなポイントはもっと色々ある。