2018.03.09

きょうで今の家からの通勤は最後だねえ。
今朝の電車で奥さんがそう言って、確かにそうだったので確かにそうだなあと思った。
いま使っている路線は車両が古いため通路幅が絶妙に狭く、わりと嫌いだったので嬉しい。

奥さんの活躍で冷蔵庫も順調に空に近づき、各種手続きも優秀な僕がてきぱきと終わらせた。
こう書いておけば「あのころ俺はてきぱきしていたのだ」と読み返した僕は勘違いするだろうが、実際の僕はきのう冷たい雨が降りしきるなか左手にスーツケース、右手に亀、傘を持つ手はもうない。そんなかわいそうな状況のなか、泣きそうになりながらもけなげに新居や区役所やもろもろでやらなくてはいけないことをなんとか済ませて寝込んだ。

このときばかりは「俺にばかり引越しの面倒なことを任せっきりにしちゃってさ!」とやさぐれそうにもなったけれど、そもそも半分は好きで引き受けたことだし、冷蔵庫事情に関しては奥さんに任せきりだし、こういうのは持ちつ持たれつなのだ。
奥さんはぐったりした僕を見かねて足をもんでくれたりお風呂に湯水を溜めてくれた。
これでは僕たちの持ちつ持たれつの関係のバランスは、むしろ奥さんからしてもらったことのほうが多くなってしまったようにも思う。

 

話は少し変わるような変わらないようななのだけれど、人間関係というのはお互いにお互いをちょっとバカにしているくらいが健康なのかもしれない。そのうえで自分のバカさにも気がついているとなおいい。
今回の引越しになぞらえていくと、奥さんは僕が考えもなしに直前まで必要そうなものを段ボールに詰め込んでしまうことに呆れているし、僕は引越しに関わる対外交渉を全部やらされている気持ちになって不服に思うところがある。
このようにお互いに「この人、ちょっとダメだな」と思っているほうが、「この人よりはマシにやれる」という自信につながり、「この人の分もやってあげよう」と行動になってあらわれる。
うっかり相手のほうが得意なことまでやってしまうと「なんでそんなやり方するの」とバカにされてムッとするけれど、ムッとするとき同じようにこちらもまた相手をバカにしているのだと気がつけるとどうでもよくなってくる。

そもそも人をバカにするのは、自分は自分の手持ちのものさしにそってものごとを理解しているに過ぎないという事実に盲目になっているからなのだ。
人それぞれものごとを判断し行動するやり方は異なる。
このことに気がつかないまま、自分のものさしからみて無能な人を無能と判断するのは、自分もまた相手のものさしからみたら無能である可能性を考えていない。
こういうのは言うのは簡単だが実際に自分の物差しを相対化して暮らしていくのは難しい。
そこで人にバカにされる効用というのが出てくる。
人にバカにされてムッとするとき「てめえのものさしで俺を測りやがって」という思いが湧きあがっている。そしてそのつど「それはこちらも同じであったな」と寛大な気づきが訪れる。
ここで気がつけないやつのことを本当の馬鹿と呼ぶのだと僕は思う。

お互いに「バカだなあ」と思いながらもそれを断罪するのではなくフォローしていくというあり方は、相手のものさしの足りていないところも含め肯定することだと言えないだろうか。
一つのものさしを共有する関係は一見すると強固かもしれないけれど、なんというかしなやかではない。価値観の地殻変動がひんぱんに起きるいまの時代そういうのはちょっと危なっかしいんじゃなかろうか。
僕には相手のバカに呆れ、自らのバカにずっこけられるような関係がいちばん居心地がいい。

誰だってふだんは自分が一番賢いような気持ちで生きているんじゃないかと思う。
そしてそれはそれで構わないんじゃないか。周りをバカにしていた自分が一番バカであったと懲りずに何度も恥じ入ることができればそれで充分じゃないか。そんなことを思いながらきょうもどこか誰かのことを見下しながら楽しく生きています。

2018.03.06

このブログのように思ったままを整理しないままに書き流すというのは、デトックス効果はあれども書く訓練にはならない。
そういう実感があるから、ここ数日は「どうにもうまく言葉にならないのだけどなんとなくこんなことが書きたい」というものを無理に書いてみることを試している。
そのうえでいちど一気に書いてしまってからは見直しも整理もしないものだから、いつも以上に読みにくい文章になっている自覚はある。
自覚はあったのだけど今年に入ってからのブログを読み返してみると思ったよりも読める。
多少の破綻こそあれちゃんと読める気がするから、語だとか文法だとかそうしたフォーマットの力というのはものすごい。どんなに適当に書きっぱなしたとしてもこうして日本語で書く限り日本語という言葉がもともと持っている型の外に出ていくことはできない。こうして野放図に書いているようでもそれはちゃんと言語体系の型によってある程度さまになるようにガイドされている。

この前このブログで能の話をしたようだけれど、能も観ていると型というものの重要さをつよく感じさせられる。
個人のありようなんて些末なことはどうでもよくて、いかに型を血肉として取り込めているか。そういうことが問われるような世界に今は興味がある。個人なんてものはどれもおなじようなもので退屈だ。型というのはメディアだ。自分が身に付けた型を媒介としてなにを表現するのか。そこでようやく個人の特性というのが問題となるのであって、自分が寄りかかる型もないままに何かを表現しようとしてもそれは表現しようとしたその対象自体の持つ型通りに拙い再現を試みることにしかならないだろう。対象になにかしらの変換や変容をもたらそうとするならば、自身の側に異質の型がなければいけない。

いま僕はいっぱしの型を身に付けたいと思っている。
それは何年もかけてようやく血肉となるようなものでなくてはいけない。
そのようなものとして期待しているのが発酵、中医学、そしてプログラミングなのだがどうにもその勉強に身が入らないので困る。
なんだかんだ言って僕はまだ一夜漬けでどうにかなるような技術や知識で間に合わせたがっているようなのだ。

退屈で地道に積み重ねていくことの必要と憧れを感じているのに、実際に地道にやるのはものすごく億劫なのだ。
どんな分野もちょっと勉強したときに広がる妄想というのがいちばん抽象度が高く、広がりもあって豊かに思えてしまうものだ。
そこから先の勉強というのはそんな抽象的なイメージを具体化していく作業なのだから、いつしか狭くなってくるし、広がりも考えつきにくくなってくる。
そのどん詰まりを経てようやく、型として血肉化できるのだと思うのだけれど、僕はこの一度狭く小さくなっていくプロセスが我慢ならない。
最初から最後までずっとブレイクスルーだけしていたい。
こんなだから地道に積み重ねていくということがさっぱりできない。
けれども僕ももう何年だか社会人を経験してしまった大人だから具体的であることの力強さというのは嫌というほど身に染みている。具体的であればあるほど、それは遠くまで届くし、届けることのできる範囲が広がればそれだけ大きくも深くもできるのだ。
わかっちゃいる。
けれどもものすごく億劫だ。

ひとかどの人物になるためには型の体得は不可欠だが、人には性分というものがある。
僕の性分とはめんどうくさがりで飽き性であり、信じられないほどこらえ性がないというものだ。おまけに記憶力は無に等しい。体力も生きているのに最低限必要な分がやっとという程度しかない。
そんな僕でも楽しく無理なく研鑽をつんでいけるものがないものかなあ。
自分で書きながら自分の甘ったれぶりに張り倒してやりたくもなるけれど、けれどもこれが現実なのだから仕方がない。
とにかくこうしてだらだら書くことは気がつけばやっているから、書くときに書けそうにないことを無理くり書いてみることで、書くことの技術や方法論みたいなものがぼんやりとでもみえてきたら儲けものだなという貧乏根性からまたこの数日ひんぱんにブログを更新している。

ほんとうはブログにはブログにふさわしい文体というのがあって、僕の文章は一文がたらたらと長く改行するにしてもカタマリ感がはんぱに大きく、さらっと読み通すには引っ掛かりが多すぎる。けれども人気のあるブログをやりたいわけではないから、くだけた文体で一文を短く刈り込んで適宜図や写真を挿入するということは多分これからもしない。そもそも人に読んでほしいならタイトルも日付だけなんて素っ気ないものでなく「奥さんと毎日楽しく過ごすライフハック10選」みたいなキャッチーなものにするべきなのだ。そのように研究を重ねて万人にリーチするブログを追求してみるというのもひとつの型の取得ではあると思うけれど、僕はただたらたら書きたいだけなのだからべつに多くの人に読んでもらわなくてもいい。
いつか「多くの人に読んでもらいたい!」という気持ちや必要が出てきたらそのとき頑張ればいいのではないか。
こうして書いていて思いついたのだけど僕が型を血肉としたいと言いながらもその勉強や訓練に身が入らないのは、当面のところさしせまった気持ちや必要が見当たらないからなのだろう。
だとしたらいまはだらしのない型なしのまま、ぼんやりとそのときを待っているしかないのかもしれない。

2018.03.02~03.05

来週には引越し。
引越しというのはもっと大変なものかと思ったけれど、物件の審査が通ったのかどうなのか、その結果をやきもき待つしかないという時期がなによりも心労が大きく、そのあとはやることは明確だしやれば終わるのでずいぶんと気楽だ。

ぼんやりと決まりきっていないこともあるにはあり、それは少し落ち着かないけれどそれは楽しいことがもっと楽しくなるかならないかという話なのでそわそわこそすれぐったりはしない。

まだ奥さんが奥さんになる前から、2年と半年ほど一緒に暮らした部屋はいま段ボールの占めるところが多くなってきて、だんだんと生活感が失われていく。
かつてセンチメンタル大魔神とおそれられた僕であるが、ふしぎと感慨もなにもない。
奥さんと離ればなれになるのであれば泣いてさみしがるけれどもそうではないし。
奥さんと考え決めたことであればたいていのことはケロリとしていられるんだろうなと思う。
変な言い方だけれども、意思決定を自分でしたという実感がまるでない。
かといって奥さんの意志に任せたかというとそうでもない。
これはもう二人の意志の総合というようなものが決めていたとしか言えない。
結婚も含めて「僕はこう思うのですがどうでしょうか」「よいのではないでしょうか」「それではぜひやりましょう!」「やりましょう!」みたいな合意形成をした覚えがない。
いや、これはさすがに僕の記憶力の問題の気も大いにするけれど、とにかくどちらか一人の意志みたいなものがもう一方の意志にはたらきかけるというようなことをしてきた感覚が全くない。
いつだって意志と呼べるようなものはお互いのあいだにあるように感じている。
これはすごく面白いことだ。
そして僕らが最高であることをものすごく直球で伝える、最大級ののろけであるとも思う。
けれどもこればかりは、僕の実感だけで言い切れるものでもない。
これを読んだ奥さんは「いや、わたしたちはちゃんと合意形成のプロセスをしっかり踏んでるでしょ」なんて言われてしまうかもしれない。
そうだとしたら僕はわりと自己というものを奥さんの側に拡散させすぎているということなので、自立した大人としてけっこうやばいんじゃないか。

ある面でなにかを共有しているとはっきり断言できる間柄であれ、いつまでたっても奥さんは他人であるのだからほんとうのところはわかりっこないしわからないからこそこうやって好き勝手書けてしまう。書けてしまうからといって書いてしまうのはほんとうに失礼なことなのかもしれない。それでも喜んでくれるかもしれない、面白がってくれるかもしれない、そうでなくても顔をしかめられるのだって面白い。そんな気持ちで書いてしまう。
僕は奥さんを信頼しすぎているのかもしれない。
たぶんこれを公開するのは週明けで、これは金曜の夜に書いている。
金曜の分をもう書いてしまったのにまだおさまらなくてこれを書いているので、このへんでいったんやめにして、実際のところを奥さんに聞いてみようと思う。

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やっぱり奥さんには「いや、わたしたちはちゃんと合意形成のプロセスをしっかり踏んでるでしょ」と言われてしまった。
けれども考えてみればそれは当たり前のことで、お互いの合意形成のプロセスをきちんと踏んでいるからこそ振り返った時に「まるでふたりの意志としか言いようのない意思」の決定がなされるわけだ。
たぶん僕は先週言いたかったことは、合意に至るプロセスが「ない」ということではなく、そのプロセスの透明度が高いということだったのだと思う。
つまり先週の僕は合意形成という言葉を「一方が言うことを聞かせ、もう一方が言うことを聞く」関係性を指し示す言葉のようにつかっていたけれど、奥さんはちゃんと相互に考えを出し合い一緒に練り上げていく行為を指す言葉として使った。そして合意形成という言葉の使い方は奥さんのやり方のほうがしっくりくる。
僕はコミュニケーションを考えるとき、一緒に何かを形成していくというイメージをなにより大事にしたいと思っているのだけど、それはそうはいってもコミュニケーションというのは「一方が言うことを聞かせ、もう一方が言うことを聞く」ものだと諦めているからこそ生まれてくる注意なのではないか。
だからこそ先週の僕は一緒に何かを形成していくというコミュニケーションを褒めそやすために、その形成に欠かせない合意形成のプロセスを「ない」ものとして書くという取り違えを起こしたのではないか。

一緒に作り上げたものは、制作にかかわった特定の一人に帰属するものではない。
それにはその形成に関わったすべてのひとの名前が記されている。
皆でつくったものはみんなのものなのだ。
これは僕がお芝居を作るのが好きな理由とつながっていくんじゃないか。
そんなことからまたいろいろと考えたのだけど、それは奥さんに直接しゃべってしまったので今あらためてここに書くことはよしておく。

2018.03.02

生活は割とあわただしく、季節の変わり目で気もちがいぎみで、まったく気持ちは忙しい。忙しいのだけどいかんせん仕事が暇なのだ。
気持ちが忙しいために会社にいるあいだじゅう考えなくてもいいようなことまで考えだして落ち込む。
落ち込みがネガティブな思い付きを呼び寄せ、再び落ち込む。
このように負のスパイラルに陥るのもすべて仕事が暇なのが悪い。
どうしてもどうしても暇なとき、退屈しのぎの最終手段として人間は何をするか。
落ち込むのである。
わざわざ考えなくてもいいようなことまで考えだして、不安になったり悲しくなったりするのである。
せっかく生活は忙しいのに、会社に来ているあいだじゅう退屈していては、一日の三分の一の時間を落ち込んで過ごさなくちゃならなくなる。そしてその落ち込みは残りの三分の一の生活にも影響をおよぼす。そうなると僕は一日のうち最後の三分の一、寝ているとき以外はずっと落ち込むハメになる。どんなに落ち込んでいてもあっさり寝れるのは自分のいいところだと思う。

こうして書いていて改めて思うのだけど、自分は仕事と生活をぱっきりと分けていて、それが苦しみのもとでもあることだ。
仕事も生活の内だと言えるようになれるだろうか。
なれるといいなとは思うけれどならなきゃならない道理もないはずで、なんでもいいから楽しく生ききりたい。
生活、睡眠、ずっと下に労働。この優先順位はたぶん一生変わらないだろう。
なんなら僕の天分とは「なるべく楽しく過ごすこと」なのだと本気で考えもする。
それなら仕事も楽しくやればいいじゃないかって、そう言われると困っちゃうな。

僕の文章は読みにくい。悪文だ。
書いている本人が読みにくいのだからそうとうだろう。
このブログに書くものは思いつくまま上から順番に書いていって、そのまま見直しもしないまま公開してしまうという、もうなんのためにわざわざ公開しているのかもわからないやり方で続けてきている。
だから、内容もそれぞれ接続しているようで接続していないようなものが多い。
「しかし」なんて一文を始めておきながら受けた前段をそのまま反復しているようなものまである。
なんでそんなことをするのか。

それは僕自身が読み返したときに面白いからだ。
僕がふと思い出したときに、このブログを検索すればいつでもいつかの僕の文章にアクセスできるようにしておきたかったのだ。
体裁を気にせずそのときそのとき書いたままに書くというのは、自分のコンディションがはっきりと表れるからいい。
人称や文体までブレブレで読み返しながら他人の書いたもののように感じることも多い。
この面白さは、きたない話で申し訳ないのだけどじぶんのうんちを見返すときの気持ちに似ている。
前日に食べたものや読んだもの、天気や心配事などのストレスの具合でその様子ははっきりと変わる。
自分から出てきたものなのに、それはすでにかつて自分を通り過ぎた者たちのなごりであって、出ていったとたんにもう自分ではないように思える。
ああ、確かにきのうはこんなかんじだったなあ、近頃ちょっと荒れ放題だからもうちょっと養生しなくちゃなあ、自分から出てきたものを見返してそんなことを考えてみたりする。
そんなかつて自分であり、いまは自分から分離されきった赤の他人のありようは、いまの自分を映し出すようでもありやっぱりまったく関係ないようでもあり、その距離感が面白い。こんな他人が自分から出てきたという事実は、そのまま自分というものがいかに自分以外のものでできているかを思い出させてくれる。

なぜ急にこうしてまた連日のように書き始めているのかというと、好きなブログがさいきん活発に、ほぼ毎日更新されているのに触発されたのだ。
なぜそれを知っているかというと、ここ最近仕事が暇なので職場で毎日のようにそのブログを検索しては新着の文章を楽しみに読んでいるからだ。
生活の実感をおもしろおかしく書けること、それでいて当人は至極おおまじめであること。
ほんとうにどれもものすごくいい文章なのだ。その実感が情けないものであればあるほどおもしろに磨きがかかっていくさまは、読んでいておもわず「どうやっても自分にはこうは書けない!」と羨ましさに転げまわりたくなるほどだ。

うんちの話なんかしてないで、僕も日々感じていることを素直に、それでいてユーモラスに書くことができたらいいな。
それはどんなに格好いいことだろう。

2018.03.01

このまえ会った友人のしてくれた話について、いまだに考えている。

ヨガの教室に通っているというその友人は教室の先生がこんなことを言っていたと話す。
人が人と対峙するとき、緊張や警戒心があると、胸の真ん中のあたりがこわばって閉じてしまう。そこを開くことが出来さえすればぽかぽかとしてきて、その温かさは相手にも伝わり、ほぐれていく。人を疑うことを覚える前の赤ん坊のまわりがぽかぽかとしているのは、赤ん坊の胸は常に開かれているからなのかもしれない。こんなようなわけで、仲良くなりたい人とはご飯を食べに行くのだ。ご飯を通すことで胸のところが開いていくから。それでもなお仲良くなれない人とは、だからよっぽど気が合わないということだろう。

だいたいこのような話だった。
いや、僕の記憶はいつだって信じがたいほど信用ならないので、いまではそんなような話として思い返している。

この話を感心しながら聞いていた僕が考えていたのは「はたして僕は今から赤ん坊のようにぽかぽかと他人の前に出ていけるだろうか」ということだった。
僕はご飯を食べて物理的に胸のところを広げようとしたところで、かたくなにこわばってしまうことが多い。これはたぶん僕の身体が信じがたいほど固いことも関係があるだろう。僕は前屈するとその指先から地面まで15センチは距離がある。これは誇張ではない。笑っている場合でもない。
では毎朝毎晩柔軟体操をして、体を柔らかくすれば、僕もぽかぽかと他人に心を、いやみずからを明け渡すことができるだろうか。
誰もかれも分け隔てなく、温かいところへと招き入れることに頓着しない。
そういう風になれるだろうか。

赤ん坊のようにポカンと世界に投げ出される。
そのイメージの鮮烈さに思わず心を奪われてしまった。
けれども、はたして僕は本当にそのようなことを欲しているだろうか。
正直よくわからない。

ともかくこの話を聞いて以来、気がつくと胸のあたりに意識が向いている。
たしかにこの人と話すときは胸のところが窮屈だな、とか。
意識的に胸を開いて歩くと、確かに気持ちはぽかぽかとしてくるな、とか。
胸を開くたびに肩甲骨のところがポキッだとかバキッだとか楽しい音を立てているけど大丈夫なのかな、とか。
奥さんといるときにどれだけ自分が開かれているかみてみなくちゃと思うのだけど、リラックスしきってしまうからか、奥さんといて胸のところを意識することを思い出せないままでいる。

 


町場のおばちゃんの、素朴なおせっかい。
そんなイデアとしての「おばちゃん」にヒントがあるような気がしている。
自分を自分の縁りかかるものへと投げ出しながらも、守りたいものはちゃんと守る。
赤ん坊に戻るのはちょっと色々と大人としてあれだけども、おばちゃんなら目指せそうだ。
それは芯が一本通っているということなのかもしれない。

ちんけな自意識やプライドを気にかける必要がないくらいの、丈夫で頼もしい芯。

2018.02.27

「あ、たぶんこの景色はずっと忘れないんだろうな」と思わされる情景のただなかで、僕は大概ほかのことをしている。
先日新居となる家から町へと歩いた。
新居のあるところと町とを分かつ大きな川にかかる橋めがけて歩いていくと、土手がどんつきのようにそびえ立っているところに着く。
壁のような土手の裏側。
そこから道路一つはさんだところに、橋へと続く階段があって、それをのぼるうちにどんどんにおいが川の近くの感じになってくるのがわかる。
とうとう橋の上についたとき、それまで目の前の土手と、真上にかかる橋とで窮屈だった視界がいっぺんにわーっと拓ける。
時刻はちょうど日が高く上るころで、車通りがおおくけしてきれいとは言えないけれど冬らしく澄んだ空気で川が向こうまで見渡せる。
ちょうど向こうで電車が川を渡っているところだった。
眼下では少年が野球をしている。白いユニフォームはもちろん土にまみれ、青い汗のにおいを思い出すようだけれど僕は野球が嫌いな少年だったので球児の汗のにおいなんて知らない。
完璧だなあ、気持ちがいいなあ、これは。
隣を歩く人が「楽しすぎて泣けてきちゃうな」というようなことを、楽しすぎて泣けてきちゃうような様子でいうので、思わず泣けてきちゃうところだったけれど、僕はそのとき、タブレットをいじりながら奥さんとLINEをしていたのでものすごく曖昧な空返事をしただけだったように思う。
というのも最愛の奥さんはその日の前日親知らずを抜いた。
そうしてこぶ取り爺さんの爺さんのようにぷっくりと腫れたかわいい顔の奥さんは、かわいいのだけれど痛みとだるさでかわいそうなのだった。
僕は家でお留守番をしているこぶ取り爺さんのようなかわいい奥さんのことが心配でたまらず、完璧な情景のさなかタブレットばかり見ていた。
もったいないことをした。

けれども思い返せば、「あ、たぶんこの景色はずっと忘れないんだろうな」と何度も思い返すことになる情景は、おおくのばあい「だからもっとちゃんと全身で味わっておくべきだった」という後悔とセットになっているようなのだ。
そうした情景のただなかで、僕は大概ほかのことをしている。

たぶんその場で「味わいそこねた!もったいないことをした!」と後悔しているからこそ何度も思い返すことになるのだろう。
その場で没頭していれば、思い返すとしてもそれはその場での得難い経験の出がらしのようなものなのだから。
なんど聴いてもメロディが覚えられないから、いちいち初めて聴くような気持ちで音楽を聴ける。
読んだ端から忘れるから、いつでもあたらしい発見とともに本が読める。
古い友人でも名前すら出てこないことがあるから、十年ぶりに会う人でも二か月ぶりの人でも、おなじように新鮮な気持ちでお茶に行ける。
没頭したものは、覚えている必要がない。いつあったっていいんだから。

けれども一回きり、そのときだけのよさというのもあって、ぼくはそういうものをちゃんと経験しそこなう。
いいとき、いいところで、なにか別のことにはんぶん気を取られている。
それはもったいないことだなあと思ってしょげる。
けれども、その場で味わいそこなうからこそ、それを思い出すとき、いちいち新鮮で、得難いような感覚をおぼえるのだと思いなおすと、なんだかお得な性分にも思えてきてちょっと気分がよくなってきた。

反省文のつもりで書き始めたけれど、なんともしまりのない感じになってしまったな。
まあいいか。

 

2018.02.13

ここ一年くらいだろうか。
発酵にハマっている。

さいきんはすこし落ち着いてきて、会う人会う人に「それは発酵ですね」「発酵でいうとこういうことですね」なんてうざい会話を仕掛けることもなくなってきた。
「ちゃんとお世話するから!」と奥さんに宣誓して買った糠床もほったらかしにしがちだ。この季節だと冷蔵庫に一か月くらい放っておいてもなんともないことがわかり、なおさら構ってやらないでいる。よくないと思う。
それでもやっぱり、ことあるごとに「これは発酵だなあ」と思う。

発酵と同時期にハマったもののひとつに能がある。
あのお面をかぶってのろのろ動くやつだ。
あれもまたべらぼうに面白い。

発酵と能に共通するいいところは「時間がかかる」ことだ。
発酵食品づくりを実践しようとなったら、それが糠床だろうとパンだろうとやることは微生物のために環境を整えること、ほぼそれだけだ。あとはただ時間が経つのを待つ。この、他者のために心をくだいて環境を整えてやり、のこりはすべてこの他者たちのはたらきに委ねるだけというのがとても気持ちがいい。僕も微生物もただあるだけだ。基本的にはほったらかしあっている。そんななかたまたまお互い気持ちがいいようにできると、おいしいものが出来上がったりする。
能の上演もものすごく高濃度に圧縮された短いテクストをじんわり解凍していくように、長い時間をかけてゆっくりと謡われ、舞われる。そもそもこのテクスト自体が云百年の時を経てどんどん短く濃く醸成されていったものだし、その解凍のメソッドも同じように歴史を背負っている。歴史を持つということは、今を生きる主体にだけ還元できるものではない何かを持っているということだ。

発酵も能も、自分の意志の介在しようがない「ただ過ぎていく時間」というものが大事だ。
これが僕の気分にとってしっくりくるところの一つなのだ。

自分の意志で勝ち取ってきたものなど何一つない。
すべては偶然とフィーリングでなんとなく決まってきた。
それは牛乳がチーズへと発酵していくのにも似ている。
それは詠唱される情景が刻一刻と変化していって、それを聴き終えたときにはじめてその折りたたまれた情景の全体が感覚できるのに似ている。
すばらしい両親を選んで生まれてきたわけではない。いくら食べても肥らない体に育ってしまったのもなんだかそうなっていたということで、望んだわけでも嫌なわけでもない。本を読むことや勉強が苦でないどころか割と好きなのもたまたまだ。進学する学部だってクラスの女の子に「かっこいい」と言われたところに決めた。友達だって、どうして仲良くなったのかどころかどうしていまも仲がいいのかすらよくわからない。住むところも就職先もそのときどきの成り行きや当時読んでいた漫画や「なんとなくいい感じ」という雰囲気で決まってきた。僕たちの最高の結婚だって、僕の意志というよりも、たまたま奥さんと同じくらいのタイミングで「いい感じ」がやってきたから決まったことで、しいて言えば僕らの意志なのだけれども、それでもやっぱり「結婚するぞー!」みたいな力強い意志みたいなものはそこにはなかったように思う。

振り返ってみるとなおいっそう、大きなイベントほど自分の意志で選び取ってきたわけではないな、という感じが強くなる。
いつでも個人ができることなんて、なんとなくの感じだけで、このまま流れに身をゆだねていくか、それともちょっと逆らってみるかを考えることだけだ。
個人が現実に対してできることなんて、糠床をかきまぜてみるくらいのことなのだと思う。

糠床をほったらかしにしすぎて水が出てきてしまったり、やばそうな臭いが漂ってきてしまったら、乾燥シイタケや塩を足してみて、祈るような気持ちで二三日待つ。
このときも僕は何もできない。
微生物の集合住宅である糠床の中で勢力図がどうあるかなんていうのは、人間とは関係のないところで起こる。
それでも僕は勝手だから、僕にとっておいしい漬物をこさえてくれる微生物たちに加勢しようとする。干しシイタケや塩を加えて糠床の環境を整えてやることはたしかに僕の「おいしい糠漬けをつくりたい」という意志みたいなものかもしれないけれど、これは意志というよりも祈りに近い。それに糠床の環境を人間に都合のいいように立て直すのは「おいしい糠漬けをつくりたい」という気持ちではなく、水分を吸収する干しシイタケや、pH値を整える塩を投入するその行動であって、たとえ「おいしい糠床をつくりたい」なんておもっていなくたって、干しシイタケや塩を入れたら糠床の環境は変化していく。
糠床という小さな現実に対してみてみても、意志はその現実に何も関与しない。

行為と時間の経過だけが現実にはたらきかける。

自分にできることなんて、動いてみることと止まってみること。あとは待つことだけだ。

発酵を通じて微生物のことを考えていると、ぼくらはほんとうに一人で生きているわけではないと痛感する。そもそもこの身体だって、自分由来の細胞よりも巨大な数の微生物が暮らしている。わたしの身体は膨大な他者との共用物なのだ。

悩むのは適量を守っていれば楽しいけれど、過ぎると孤立してしまったような息苦しい気持ちでいっぱいになってしまう。
そういうときは自分で決められることや自分で選び取れるものなんて実は何一つないということを思い出すと、少し楽チンになるんじゃないだろうか。
さいきんはそんなことを考えている。

現実に文句があるのなら、悩んだり意志をたくましくすることよりも、とりあえずかきまぜてみて、じっと経過を待っているというのが、案外いい感じにおさまっていきやすいようにも思う。

楽しい感じのすることだけを大事にしていきたいな。