2018.03.06

このブログのように思ったままを整理しないままに書き流すというのは、デトックス効果はあれども書く訓練にはならない。
そういう実感があるから、ここ数日は「どうにもうまく言葉にならないのだけどなんとなくこんなことが書きたい」というものを無理に書いてみることを試している。
そのうえでいちど一気に書いてしまってからは見直しも整理もしないものだから、いつも以上に読みにくい文章になっている自覚はある。
自覚はあったのだけど今年に入ってからのブログを読み返してみると思ったよりも読める。
多少の破綻こそあれちゃんと読める気がするから、語だとか文法だとかそうしたフォーマットの力というのはものすごい。どんなに適当に書きっぱなしたとしてもこうして日本語で書く限り日本語という言葉がもともと持っている型の外に出ていくことはできない。こうして野放図に書いているようでもそれはちゃんと言語体系の型によってある程度さまになるようにガイドされている。

この前このブログで能の話をしたようだけれど、能も観ていると型というものの重要さをつよく感じさせられる。
個人のありようなんて些末なことはどうでもよくて、いかに型を血肉として取り込めているか。そういうことが問われるような世界に今は興味がある。個人なんてものはどれもおなじようなもので退屈だ。型というのはメディアだ。自分が身に付けた型を媒介としてなにを表現するのか。そこでようやく個人の特性というのが問題となるのであって、自分が寄りかかる型もないままに何かを表現しようとしてもそれは表現しようとしたその対象自体の持つ型通りに拙い再現を試みることにしかならないだろう。対象になにかしらの変換や変容をもたらそうとするならば、自身の側に異質の型がなければいけない。

いま僕はいっぱしの型を身に付けたいと思っている。
それは何年もかけてようやく血肉となるようなものでなくてはいけない。
そのようなものとして期待しているのが発酵、中医学、そしてプログラミングなのだがどうにもその勉強に身が入らないので困る。
なんだかんだ言って僕はまだ一夜漬けでどうにかなるような技術や知識で間に合わせたがっているようなのだ。

退屈で地道に積み重ねていくことの必要と憧れを感じているのに、実際に地道にやるのはものすごく億劫なのだ。
どんな分野もちょっと勉強したときに広がる妄想というのがいちばん抽象度が高く、広がりもあって豊かに思えてしまうものだ。
そこから先の勉強というのはそんな抽象的なイメージを具体化していく作業なのだから、いつしか狭くなってくるし、広がりも考えつきにくくなってくる。
そのどん詰まりを経てようやく、型として血肉化できるのだと思うのだけれど、僕はこの一度狭く小さくなっていくプロセスが我慢ならない。
最初から最後までずっとブレイクスルーだけしていたい。
こんなだから地道に積み重ねていくということがさっぱりできない。
けれども僕ももう何年だか社会人を経験してしまった大人だから具体的であることの力強さというのは嫌というほど身に染みている。具体的であればあるほど、それは遠くまで届くし、届けることのできる範囲が広がればそれだけ大きくも深くもできるのだ。
わかっちゃいる。
けれどもものすごく億劫だ。

ひとかどの人物になるためには型の体得は不可欠だが、人には性分というものがある。
僕の性分とはめんどうくさがりで飽き性であり、信じられないほどこらえ性がないというものだ。おまけに記憶力は無に等しい。体力も生きているのに最低限必要な分がやっとという程度しかない。
そんな僕でも楽しく無理なく研鑽をつんでいけるものがないものかなあ。
自分で書きながら自分の甘ったれぶりに張り倒してやりたくもなるけれど、けれどもこれが現実なのだから仕方がない。
とにかくこうしてだらだら書くことは気がつけばやっているから、書くときに書けそうにないことを無理くり書いてみることで、書くことの技術や方法論みたいなものがぼんやりとでもみえてきたら儲けものだなという貧乏根性からまたこの数日ひんぱんにブログを更新している。

ほんとうはブログにはブログにふさわしい文体というのがあって、僕の文章は一文がたらたらと長く改行するにしてもカタマリ感がはんぱに大きく、さらっと読み通すには引っ掛かりが多すぎる。けれども人気のあるブログをやりたいわけではないから、くだけた文体で一文を短く刈り込んで適宜図や写真を挿入するということは多分これからもしない。そもそも人に読んでほしいならタイトルも日付だけなんて素っ気ないものでなく「奥さんと毎日楽しく過ごすライフハック10選」みたいなキャッチーなものにするべきなのだ。そのように研究を重ねて万人にリーチするブログを追求してみるというのもひとつの型の取得ではあると思うけれど、僕はただたらたら書きたいだけなのだからべつに多くの人に読んでもらわなくてもいい。
いつか「多くの人に読んでもらいたい!」という気持ちや必要が出てきたらそのとき頑張ればいいのではないか。
こうして書いていて思いついたのだけど僕が型を血肉としたいと言いながらもその勉強や訓練に身が入らないのは、当面のところさしせまった気持ちや必要が見当たらないからなのだろう。
だとしたらいまはだらしのない型なしのまま、ぼんやりとそのときを待っているしかないのかもしれない。