2018.08.27

「今日は暑いので早めに帰ろう。帰ったらおしゃべりをしよう」と昨日のお出かけの終わりに言って、なにを話すのと聞かれたので「奥さんの素晴らしさについて」だと応えると、そういうのはいいや、そういうのはブログにして、おしゃべりしちゃうと明文化されないし、ブログだとアーカイブが残って何度でも見返せるからと言われて、アーカイブを残すって保管するものを保管するみたいなあれじゃないかなと思うし、そもそもたぶん奥さんはこの通りには言っていないのでアーカイブを残すなんて気持ちの悪い言い回しをついつい書いてしまったのは単純に低気圧でいま、あたまが割れるように痛くて、実際たったいま、山手線の車外では通り雨というか夕立ちというか、そういうのがワーッと降り出した。向かいの席の女の子が「ワンチャンまじで怒ってもいい」ときっぱりと言っていて、そのあと「いや、でもまあ怒るのはあれか」と迷って、きっぱり言い切ったあと逡巡へと至るその流れがなんだか誠実な感じがしてよかった。歌舞伎みたいなボリュームの金髪のその人が、隣の友達のどんな怒りを肯定したのかはわからないけれど、きっぱりと一度肯定した、そのうえで、友達の感情について断言することへの居心地の悪さを感じて少し迷うという、その一連の感情の動きがその人と友達との関係がよいものであるのだろうなあと勝手に思えてしまうものだった。個人の「よさ」は、こういう誰かや何かとのあいだに生起するものであって、その人個人の特性ではない。さっき「ワンチャンまさかの遅刻じゃね」と渋谷で降りていった彼女の「よさ」が、友達との会話の断片に滲み出る友達との関係性のなかにあること。物や人とどのような関係をとり結ぶか、個性だとかいうものはたぶんそれだけのことだ。

 


奥さんを褒めることは、なので僕と奥さん、誰かと奥さん、何かと奥さんとのあいだに醸し出されるなにかを褒めるということだ。奥さんもまた、誰かを苦しませたり悩ませたり不安にさせるものに対してきっぱりと怒る。それも理論立てて怒る。その論理的な「怒ってもいい」という表明は、あまりに合理的であるために我が家では「おっしゃる通り魔」と呼ばれる。反論の余地のない「おっしゃる通り」な言葉は、ときにない余裕をさらになくす。正論でメッタ刺しだ。我が家ではそうした正論に対して「おっしゃる通り魔」と茶化すことで、言語化が正しすぎたり精確すぎたりすることを避ける。これはかなり有用な生活の知恵だと思うので是非みなさんも覚えて帰ってください。行きすぎた言語化、理論化はときにひとを追い詰めます。ぼくらは生活の当事者であり研究者ではないので、突き詰めすぎないという工夫もまた必要なのかもしれません。それでも、なるべく具体的に精確に言語化しようという試みは、言葉にならないがゆえに手の施しようがないモヤモヤやイライラを、とりあえず対処のできるto DOへと変換してくれるので大切です。本日ご紹介したい奥さんの素晴らしいところは、洞察を課題抽出までに留め、そこから先の精確な言語化を保留できるそのバランス感覚です。僕はさらにそこから理念みたいなところまで突っ走りがちなので、奥さんに「駄弁りはいいからとりあえずやってみたら?」「いや、そこまで一般化はしてない」などと冷静に今この生活から手を打てるto DOに引き戻してくれるその粘り強い現実主義に日々すごいなあと思います。実際今年の夫婦の目標は「なかよく楽しく元気よく、そして美しく」で、前半は従来どおりなので後半の「そして美しく」こそが肝要なのですが奥さんは具体的に金と手間をかけて、どんどん綺麗になっていきます。僕がああでもないこうでもないと空論をこねくり回している間に、黙々とやるべきことを選定し、そこに具体的なリソースを投入して目に見える成果を上げている。

 


僕や他の人の相談とも愚痴とも煮え切らないモヤモヤに対する態度も、「美しく」という観念的な目標に対しても、奥さんのアプローチはいつでも親身にまっすぐ相手のことを見据えて、曖昧なものをひとつひとつ具体的なものへと分解していく。それらを組み立て直すのは相手の仕事だから、そこまで手を出すことはしない。自分ごとである場合、ひとつひとつに現実的な対処を試してみる。このように抽象的に書くのはブログだからあんまり具体的なことは書かないというのもあるけれど僕がこういうふうにしか書けないし考えられないからだ。奥さんの具体的な思考や現実的な実践をみると、これが知的ということだよなあとしみじみ思い知らされる。