2020.03.17

岸波龍さんの日記がいい。そろそろ詩を楽しめるようになりたい、と思っていて、松下育男の「初心者のための詩の書き方」が読みたくなった。調べてみると思潮社の『松下育男 詩集』に入っているっぽい。今月はとっくに書籍代の予算オーバーなので来月の一冊としてメモする。


自分の好奇心の宛先を思わぬ方向へ放ること。知らず知らずのうちに構築している自らの環世界では認識しようがないもの、ほとんど自明のものとしてしまっているような僕個人というローカルな価値観をゆさぶること。そのためにはやはり僕でない誰かに出会うのが手っ取り早い。というか、おそらくそれしか手はない。友達が多いのは大事だが、友達が多いことよりも、知らない人とどれだけ出くわせるかが大事な気がしている。僕は僕にはにわかには「わからない」ものをこそ読みたい。読むという行為は、ひとつの動詞で表されはするが、ほとんど一冊ごとに内実がことごとく異質だ。たとえば僕はかなり政治に疎いので、酒井隆史が当然のように用いる政治理論の語彙のほとんどが未知だ。語彙を増やすことはそのまま日々を上手にやっていくための道具を増やすことだ。しかし未知の言葉や論点が多すぎてこれはほとんど読んでいないに等しいな、となっている。文字をなぞるだけの読書。僕はこういうのも好きだ。


そういうわけで酒井隆史『自由論』は手ごわく、かなりいい加減に読んでいる。半分以上分からないまま、注釈まで拾っていくとキリがなさそうなので諦めてとにかく本文を前に進めることにする。それでもわからないなりに触発されるところが大いにあるようで、僕のこの思想書を読むときのいい加減さは、詩への態度にこそ望ましいものなのかもしれない。思想を詩のようにイメージの種として読み、詩を思想のように文字による構築物と読む。このねじれが面白い。面白いがもっと楽しく読めるようにフォームを正したい。


新自由主義とは何か。それは下記のようなものである。

それは自らが自らの生活の経営者たることを称揚する価値観である。個人は流動化する働き方に柔軟に対応しながら、自分の市場価値を練磨しサバイブしていくことを求められている。終身雇用を信じさせてくれるような大きな会社や社会保障を信じさせてくれるような大きな政府はすっかり縮小し、公共の担うものであったはずのリスクまで自己責任として個人に帰責する。自分のことは自分で面倒を見るしかないのだ。そういう世界観のなかでは、誰もが競争相手だ。僕たちは他者に対して、自分をいつ出し抜いてくるかわからない余所者であるという不信感を募らせる。それでもぜんぶを一人でやりきるのはしんどい。だから生活のためにも気の合う仲間と協力し合っていこう。知らない人はやっぱり怖いから安全のために壁をつくろう。この壁の内側には知っている人しかいないから安心だ。この安心を維持管理していくためにも、倫理とルールを明示し、相互監視のもとメンバーをうまくマネジメントしていく必要があるよね。このようにして、流動的でもはや実体がないような社会のなかで大きすぎる責任を押し付けられた個人は、いつしか支配=管理の論理を内面化し、絡み取られていく──たぶん『自由論』ではこういうことが書かれている。


ここで描かれる新自由主義は、僕が『ZINE アカミミ』で提案している「アカミミハウス」の試論において半ば自覚的に与している態度そのものだった。だから「アカミミハウス」について新自由主義的であるという批判はあるはずだった。僕は、新自由主義が百パーセント悪者ではないんじゃないか、と考えているというか、数パーセントのいいところでうまくやる方法として「アカミミハウス」を考えたいようだからだ。

自由であることを際限なく称揚することは、むしろリスクや管理責任をぜんぶ個人で引き受ける不自由さや、身動きが取れなくなるほどの不安を引き寄せる。そもそも経済活動の自由を推し進めはするけど、生活の自由は必ずしも保障してない。これが僕の考える新自由主義のイケてなさだが、個人に自由が──ある程度以上のお金がある限り、という条件付きではあるけれど──あるからこそ、このイケてなさからはみ出る余白をDIYすることもできるんじゃないか。息苦しい環境の内部において、なんとかやっていけそうな隙間を自作すること。そしてその隙間を、僕はいま「家」に見出そうとしている。

新自由主義のイケてなさその二として、旧来の家父長制が便利なのでなるべく長く使いたいっぽい、というのがある。セーフティネットを保証する社会がないからこそ、個人個人で自作したゲーテッド・コミュニティが必要になる。為政者は、自分たちが担えないセーフティネットとしての役割を果たすコミュニティとして、明らかに時代遅れの家父長制的な家族像を唯一の最適解のようにオススメしたいっぽい。内輪の倫理とルールに基づいて、相互監視のもとメンバーをうまくマネジメントしていくのに、旧来の家族観というのは非常に相性がいいからだ。*1

資本主義が高度化し、お金でしかものを考えられないような状況が圧倒的である今、政府も会社もいよいよ小さくなるばかり、社会もあるようでない、であれば、個人の身を寄せて力を合わせることのできうる場所はコミュニティしかない。しかし、他者は不信の対象でしかなく、すでに地域の公共も信じられないのだから、僕たちは僕たちの生活を保障するコミュニティを「家」の中に作っていくしかないかもしれない。ここまでの理路は「アカミミハウス」は典型的な新自由主義っ子かもしれない。

でも、その「家」の運営メンバーを、わざわざ血縁や婚姻で限定するメリットってもはやなくない? というのが「アカミミハウス」の素朴な問いかけなのだと思う。僕たちは自由なので、どんな人たちとどんな不自由を共有するかというのも自分たちで選べる。

まだかなり生煮えの考えなので、だいぶ隙だらけだと思うけれど。

 


*1 余談だけれど、いまの為政者のダサさは、日本というのを一個の家族に見立てるというダサい価値観に由来しているんじゃないかな、と思っている。自由気ままで予測のつかないグローバル市場で負けないように一致団結頑張っていこうね、と実に口うるさくあれこれ指図して、構成メンバーには自由を認めない父親のような振る舞いをする。この見立てにそぐわない人たちは、もともと家族の一員として想定されていないから、余所者としてそもそもはじめから考慮されていない。家族会議としての「政治」は家族の一員だけのもので、異質の他者同士の価値観の衝突と妥協という本来の政治は外部に追いやられている。