2020.02.21

プルースト以後、日々の読書のリズムを支えるのは『富士日記』なのだけど、毎日読むということはなく、読むものがうっかりなくなってしまった時や何が読みたいのかわからないときのためにリュックに常備しているというもので、今月については武田に代わって松井『hibi/ どこにいても本屋』と牟田『校正者の日記 二〇一九年』とが活躍することが多く、特に『hibi/ どこにいても本屋』が読まれている。今日は荷物も多くて『富士日記』とこれしか持っていないこともあり、もしかしたら読み終えてしまうかもしれない。note や『H.A.Bノ冊子』でも読んだものも、こうして全体のなかで読み返すとぜんぜん違った印象になって、配置の効果というのを思う。本も、どう並べるのかで意味合いが変わってくるし、文章もそうだ。個人だって、どんな状況や文脈においてあるかで別人みたいになるだろう。ドゥルーズ千のプラトー』に頻出する「アレンジメント」という語は、原語のニュアンスからすると日本では「レイアウト」としたほうが分かりやすいかもしれないね、というようなことをいつだか誰かから聞いた覚えがあって、配置を変えればすべてが変わるということかと当時の僕は思った。それを思い出していた。


日々のライスのための仕事は、午前中に気合いのいる打ち合わせがあって、昨晩から気が重かったが僕はやるときはやるタイプなのでやって、それで午後はぐだぐだしていた。僕はやらなくてもいいときは徹底的にやらないで済ませるタイプなので。僕が節約の原理をはたらかせずに勤勉で満たされるのはやっぱりライスワークではなく読書や日記やさいきんは自分の本を届けるということで、これらはライフワークといってもいい、しかしこれをライスに繋げたいかというと全くそんなことはないというか、ライスはライスで別で何とかしているからこそ読書や日記や本を作り届けることが輝く、ということもあるような気がしていて僕はその輝きに賭けたいらしい。ライフはライスのためだけにあるわけじゃなし。僕はそこを一緒にしてしまうと、ライスを失うこと怖さにどんな小さなリスクすら取れなくなるのが容易に想像できる。

そうは言っても、辻山さんや松井さんの本を読んだりしていると、仕事と生活とが切り離されていない状態の健全さに憧れもする。その健全さはブラックボックスの少ない、シンプルなものだ。だいたいのことは自分で理解できるし、納得できる形に調整していくこともできるという感覚は、自分の主は自分、という自負を育むだろうと思う。いいなあ。けれども僕はどうしても仕事と生活を分けて考えてしまう、そして、自分の生活の主は自分、という自負があるからこそ、たとえそれが自分にしかできない仕事であったとしても、仕事に生活を乗っ取られるようなことはしたくないと思っているらしいということに、時間をかけて気がついていったので、憧れはするけれども僕はそうした生き方を選ばないだろう。僕が責任を持って楽しんで為すのは生活で、仕事ではない。そうであれば、なるべく節約しながらやっていける仕事をライスワークに選んだほうが気楽だ。ライスが主目的なのだから、いざとなったら会社を変えたっていい、と嘯きながら何だかんだ今の会社に居座っているのも、いまのところ生活を脅かすほどの状況じゃないからというだけの理由だろう。