2020.03.06

ようやく長い冬が終わったというのに作家の具合はいよいよ悪い。春愁だろうか。わかるよ、わかるよトーラ。僕はこの三日間、帰宅するとものすごく気持ちが落ち込むか、猛烈に苛立つかで、とにかく調子が悪い。……


次に何を読もうか、と思い、並走しているスタニスワフ・レムは隙間にちょこちょこ読んでくのがよさそうに思っているのでもう一冊。それで借りているもので返却期限が近いものからてきとうに、と『技術にも自治がある』にする。たしか若林恵がどこかで言及していたやつ。たぶんガバメントの雑誌のインタビューだったのだけど、そういえばまだ買ってない。図書館のいいところは積読に期限があるところで、いいところというか、よしあしなのだけど、ともかく返却期限という要因によって、こちらの気分の流れと関係のない文脈をいきなり差し挟むことができる。それで、なるべく遠いやつ、それに『ノルゲ』にも河川の話が出てきたし、と治水技術についての一冊が選ばれた。なんとなく鵜呑みにはできないなという気持ちで読んでいる。それは僕が自然と人工みたいな二項対立はすでに無効なように考えているからで、つまり自然観みたいなもののアップデートはこの十年足らずでもの凄く行われているということだろう。とはいえ、語り口はともかく、ここで検討されているのは技術の進歩そのものの是非ではなく、全体最適という名の下で規格化を推し進めることの是非であり、それはいまこそアクチュアルな問いだった。


技術と規格というのはどうしたって結託しがちだけれど、どうにかローカルの多様な価値にフィットするような、規格からはみ出るようなものをこそサポートする技術のありようはありえないだろうか、それこそ、「技術の自治」は可能なのだろうか。そういうことが試されている本だった。日本企業の、会社ごとに独自のシステムが野放図に乱立しているさまを知っていると、いや、ゴテゴテの独自業務フローとか効率悪いからさっさと規格化しろよ、という気持ちもなくはないけれど、技術ってそもそも人のためにあるんでしょ、ということを考えると、規格化していいものと、そうでないものの区別はかなり慎重にやるべきことだとも思う。ドミニク・チェンのウェルビーイング論なんかにも通じる話だ。技術は、多様性に寄り添えるか、どこまで寄り添うべきなのか。効率のために個々の差異を無化し、平準化することは、個々のかけがえのなさを疎外することでもある。しかし、すべての自治の範疇を際限なく細分化していくことは、新自由主義的な自己責任の息苦しさを生みかねない。


たとえば一日のうちどれだけの時間をテレビゲームで遊ぶのに使うのかなんて、地方自治体が杓子定規に決めることではなく、各家庭ごとの自治の範疇だろう。規格そのものがすなわち悪なのでなく、あまりに大掛かりに規格化を推し進めようとすると、もうすこし小さい単位での自治意識が損なわれる。そうやって個人個人の「自分でなんとかやっていける」という自信というか自負みたいなものがどんどん損なわれていくことこそが問題のはずだ。

翻って、幼稚園の数がまったく足りていないみたいな問題まで、居住地の適性な選択を間違えた家庭の自治の失敗だと断じるのはナンセンスだろう。子供を安心して育てられる地域をつくることは、個人個人ではなく、地域や国が責任を負うべきものだ。明らかに「自分でなんとかやっていける」範囲の外にある問題まで、自己責任として個人に自治を押し付けられてはたまったものではない。ひとりじゃできないことを、皆でどうにかするためにこそ、地域社会とか国とかいう共同幻想は作り上げられた。


こういうことは何度も考えていて、そのたびに、僕が問題としているのは二者択一の選択ではなくて、生活のあらゆるものごとに対して、そのつど「これは自分でなんとかやれる」「これはさすがに無理っぽい」と点検していくしかないということに思い至る。福祉か新自由主義か、という二項対立がすでに違っていて、どこまでを福祉の範疇として、どこからを個人の自由として任せるのか、その塩梅こそを考えるべきだった。

もうそろそろ人類は、でかく出るが人類のフェースは、喧嘩はダサい、というところまで来ていると信じたい。折り合っていこう。


日々を脅かされてると不安に感じることなく、致命的なダメージは追わないという社会への信頼のもとに色んな事に自由にチャレンジすることができる、というのが僕の考える理想の社会だった。そうなれ。