2018.03.16

日曜に引っ越してなんとか金曜までやってきた。

日曜すでに人の住む家の体裁は整っていたとはいえ、まだ手の入れる余地というには大きすぎる余地が余りあるといった状況で、結局月曜から毎日帰宅後に手を入れてあまり気持ちの休まらないまま体はもっと休まらないという悪循環をようやく抜け出たのは水曜の夜、とうとう大物家具の設置もあらかた終わり、段ボールをはじめとしたゴミをすべて出し終わったころだった。
生活のリズムがようやく軌道に乗ったかな、と思ったとたんに緊張の糸がプッツリと切れどっと肉体疲労が押し寄せてきたのが木曜日。
長かった。
とにかくこの一週間は長かった。

けれどもどう考えても新居は最高。
しんどい思いをしただけの甲斐はある。
広いしきれいだし収納はちょっと物足りない。
広すぎて持てあますので来月からの同居人の到着が待ち遠しいけれども収納だけは心配。
きれいすぎて毎日ちょっとしたお泊まり気分だし、ほんのり背伸びしたような気分のまま自宅で過ごすというのは新鮮な体験でもあるけれど疲れるのでいいかげん慣れたい。
亀はようやくご飯を食べるようになった。
亀にとっては引越しなんて天変地異みたいなものだから、ほんとうにかわいそうなことをした。引越ししてから下手したら数週間はストレスと警戒でじっとして動かないでいる、なんてことをよその亀飼いが書いているブログも読んだから心配していたのだけれどうちの亀は思ったよりたくましい亀でよかった。

亀はご飯を食べるのが本当に下手だ。たぶん視野が狭いのだろう。水面に浮かぶ小エビになかなか気がつかないし、気がついてもなかなかうまく喉にまで持っていけない。当人としては必死なのかもしれないけれどその様子はあまりにのんきで眺めているこちらはのんきな心持ちになってくる。
亀はうちで生きているだけで、とくに面白いことはしない。
飼っていてここまで面白味も何もない動物もないだろう。
けれども人間以外の生き物が目に見える大きさでもってそこに存在しているというのはなんだかそれだけでいい感じがある。どんな感じだと言われてもまだうまく言葉にできないけれどともかくいいのだ。無理に言葉を探してみるならばそれは人間以外の生存を考えているという状態のよさなのかもしれない。自分や奥さんの死活問題はシャレにならないが亀のそれはひどいものでのんきな心持ちで挑むことができる。うちの亀にとっての生存の条件とは、水や餌を替えてやる人間が存在しているということで、結局うちにいる人間以外の存在の生存を考えることは人間の元気でいることを考えることに繋がっている。けれどもその繋がりは印象としてはぼんやりしており「この亀のためにも生きていかなくちゃ!」というような切実な気持ちというよりは「亀もいるしなあ」という程度の、生存に対するゆるいモチベーションをもたらしてくれる。
この遠回りして自分の健康を慮ることをうっすらと要請してくる。このくらいのゆるくてよわいモチベーションがいちばん具合がいいように感じられて、このゆるさやよわさが亀のいる暮らしのよさの一つなのだろうなといま書きながら思う。これが犬や猫だったらましてや人間の赤ん坊だったりしたら「この子のために生きていかなくちゃ!」という切実さがどうしたって出る。
犬や猫や赤ん坊もいま生活にお招きしたい気持ちはなくはないけれど、それはたぶん自身の生存のモチベーションのだしにするという不遜な思惑とはまた別のところに所在があるようにも思うので、やはり無責任に自身の健康や生存の「必要」を押し付ける相手として亀はちょうどいいのだ。
もちろん生存のモチベーションのだしに使えることだけが亀と暮らすことのよさではないし、ほかにもきっとあるのだろう。けれどもとりあえず無理にひねり出してみようとしたらこういうことになった。無理にひねり出す言葉というのは生きるだの死ぬだのはたまた世界や宇宙だのえてして壮大になりがちだ。なんなんだろうこれは。

そして縁日にうっかり掬ってきてしまったこの亀との暮らしももう一年半とかそれ以上になるのに、きょうこうしてはじめて亀にここまでの文字数を使って考えたのはやっぱり新居に移ったからなのだろう。
環境が変われば認識のやりようも変わる。
当たり前に面白くもなかった亀のことをわざわざ考えてみる気持ちにもさせられる。
ここ数日奥さんがやたらと美人に見えるのは、親知らずの抜歯でパンパンパンのパンに腫れあがったお顔がようやく元に戻ったからだと思っていたけれど、それだけではないのかもしれない。
引越しという一大イベントを共にやり遂げたこと、部屋の照明が暖色に替わり全体がやさしい印象に映ること、新しい土地と部屋で少し心細いこと。
そうした変化が、もともとつくりのいい奥さんの顔をさらに魅力的に感じるのに影響を与えているのは確かだろう。

亀も奥さんも、当たり前にせずいつでも珍しがったらり面白がったりできるようでいたい。
こういう初心は、これまでのようにまた忘れるのだろうけど。


と、ここできれいにまとまったから終えようと思ったのだけど、亀はともかく奥さんは毎日いちいち新鮮に可愛くたのもしくほかにも見所がいっぱいの興味が尽きない存在であり続けているので、ここで終えるとちょっとそれっぽく体裁を整えるためにうそをつく格好になる。
奥さんのことをなんてすばらしい人なんだろうと新鮮に思い直し続ける日々はいつかさすがにくたびれるのだろうか。
それはたぶん僕が奥さんが他人であること、いつまでも謎であり続ける他人であることに盲目になったとき訪れるだろう。
亀だって他人だけれど、たぶん僕は亀のことを僕や僕らの部屋の延長にみている。
亀の環世界は人間の僕には解りえないし、わかるための努力もあんまりする気にならないから亀の存在は僕の環世界の中にだけ存在している。
亀への新鮮な気持ちは、亀の環世界を垣間見ることの不可能性によって薄れていく。
奥さんがみている世界、感じている世界、奥さんの環世界を僕が体験することもない。
けれども、亀のそれと違ってその近似値を体験することを夢想することはできる。
近いようで、まったく異なる、けれどもつよく親しみを覚える。
この絶妙な環世界の隔たり具合が、尽きせぬ奥さんへの興味関心を生むのだろう。
まだもうちょっと近づけるかな。もうちょっと似た景色をみられるかな。
その欲目が、決して解消できない隔たりにちょっかいをかけたくなる気持ちにさせるんだろう。それは届かなくていい。むしろその隔たり具合も含めて気持ちのいい人だから奥さんと僕は最高であるので、隔たりがほんとうに解消されてしまってはまた違った話になってくるだろう。それでもそれはそれとしてすっかり同化してしまうことを夢見てみる。二人の間の距離も含めて愛着を持っていながら、それでもなおより一層距離をゼロに近づけようと試み続けること。
ほら、よく考えないまま書いていくと壮大になっちゃった。

「あなたが好きなのはプロセスそのものだからねぇ」
先日奥さんに言われて首がもげるほど頷いた言葉だ。
いい関係というのはいいプロセスのことなのかもしれない。