2018.06.28

さいきんは諸事情によりごきげんに生きる方法論を探しては実際に試してみるというように暮らしている。
すると同居人から「これはごきげんについて考えるための課題図書なので」と地曳いく子の『服を買うなら、捨てなさい』という本を手渡された。「はあ、著者はバブリーな世界で生きてきたのね~」みたいなちょっと白けた気分にもなりつつも、面白く読んでいる。

「増やしたり大きくするのはいいこと」という価値観に踊らされる機会もなく、ないならないなりに小さく快適に生きていこうみたいな環境でここまで生きてきたので、著者がしつこく破壊しようとする「モノがたくさんあることはいいこと」みたいな価値観じたい持ち合わせておらず、だから自分が持ってもいない価値観への破壊工作のしつこさには「はあ、著者はバブリーな世界で生きてきたのね~」と辟易するしかないのだけれど、そうまでしないと自分が当たり前に持っている価値観にたどり着けない人もいるということが面白い。

そういう「ぜんぶ自分のものにしたい!」みたいにガツガツやっていた人たちから見れば、あまりものを持たずにシンプルに暮らすということに積極的な価値すら見出されるのだというのが体感的にわかってきた。僕はミニマリズムに対して共感しつつも、それはバブル的価値観の反動というよりは、むしろ斜陽の国の住民のやせ我慢というか諦めの美意識なのだと思っていた。「たくさんは買えないし、じゃんじゃん買い替えることもできないのだから、せめてしっかり吟味して買うことで長く楽しもう」というような気高い貧乏性なのだと思っていた。いまだ飽食の時代感覚を捨てきれない金持ちにとっても「持ちものを減らす」という選択は、あたらしいトレンドないしは道楽としてありうるのだなあというのがやっと腑に落ちた。

「2千円の適当なTシャツを10枚買ってすぐに雑巾にしてしまうよりも、一着1万8千円のTシャツを大事に着るほうが気分もいいしむしろ経済的じゃね?」というのがミニマリズムだと思っていた。そこで一着3万円のTシャツを買うほうがクールだという価値観にもなりうるというのは、薄々わかってはいたけれどなんだかびっくりした。なんでびっくりしてしまったのかといと、たぶん僕は金持ちに対して相当なルサンチマンを持っていて、ミニマリズムが金持ちの道楽でもありうることに気がついていたとしても簡単には認められなかったのだと思う。ミニマリズムというのは僕ら持たざる側の厳しい状況をなんとか楽しくサバイブするための最適解のひとつであると感じていた。だからこそ金持ちにとっては「たくさん持つ」も「すこしだけ持つ」も両方選択肢にありうるということが許せなかったのだろう。それは俺たちの遊び方だぞ、と。俺はたくさん持ちたくても持てなかったんだぞ、と。

今回『服を買うなら、捨てなさい』という、おそらく金持ちが書いた本を読みながら、そんなわだかまりがほぐれてきている。というのも、金持ちの感じるミニマリズムのよさと、僕らの感じるよさとのあいだにギャップがほぼないということが感じられたからだ。ミニマリズムは金持ちにとっても僕らにとっても、似たような解像度で道楽になりうるというのがわかって、それはすごくいいなと思った。引き算の美学が優勢となることは、スケールメリットが必ずしも有利に働かないどころかむしろ足枷となることを意味している。手持ちのお金の多寡よりも、個々人のセンスで判断されるゲームは、ある程度経済的な格差を無効化したところで繰り広げられる。これってけっこう痛快なことじゃないだろうか。もちろんセンスだって、お金も大いに含めた生活の余裕があってはじめて磨かれていくのだけど。『万引き家族』は観ていないけれど、ツイッターで「貧困一家の家がもので溢れているのがリアル」という感想をみかけた。ものを減らすにも余裕がいるのだ。とはいえ、いま流行のゲームに手持ちがないから乗ることすらできないみたいな気分にはならずに済む。というか、「しみったれた現状から這い上がるためにはとにかく稼げ」と運が良かっただけのひとたちから無責任に抽象的な講釈を垂れられるより、「より楽しく暮らすためにとにかく捨てろ」という言説のほうがうんと建設的だし具体的なぶんすぐに実践できてずっといい気分になる。

あんまり気に入ってはいないけれど経済的な理由で妥協して買ったものは全部捨ててしまおうと思った。気に入らないもので済ませるくらいならなしで済ませたほうがましだし、結果的に多少高くついたとしても、少ない数のお気に入りだけを持ち物にして暮らしたい。
上記の本は読み切らないかもしれないけれども、こういう思いが強くなるきっかけにはなったのだから読んでよかった。

これまではなんだかんだ「たくさん持つ」ことへの憧れやその裏返しを捨てきれていなかったから、安くてそこそこのものを適当に買い込んでは後悔していた。そこそこのものが増え、「お金があったらもっといいものが買えたのに」とこじらせていく。そういう負のループに、特に僕は服において陥っていた。お金をかけずにものを持とうとすると、結果的にどうでもいいもので溢れた部屋でいらいらと暮らすようになるというのは学生時代を思い出してもひりひりとわかる。
「必要最低限のものに最大限のコストを投入し、必要でないものは徹底的に捨てる」
「お金はなるべくかけず、けれどもかけるときはケチらずちゃんとかける」
そういう気持ちになるためには、一度持ってみないとなれないのかもしれない。10代の非モテをこじらせて、ただがむしゃらにモテを追求した大学デビューの熱情は実際にモテてみたらあっさりと萎んでいった。いま自分がこういう考えになっているのも、たくさんの女の子からモテたいという気持ちがすっかりなくなり、奥さんといつまでもごきげんにくらしたいという気持ちが日に日に強くなっているというのも関係しているだろう。本を貸してくれた同居人は「これは服の本だけど、わたしは人生の本だと思ってる」と言っていたように、ものとの付き合い方を考えることは人との付き合い方にも接続していく。

ついさっき今度の本は読み切らないかもしれないけれども読んでよかったと書いたけれど、就職前の僕はおそらくタイトルや表紙だけ見て「こんな軽薄そうな本は俺は読まない!資本主義め!」と読まずに放置したと思う。
つい先日の弟のブログには「自分に関係がないものに興味や感情移入を持ちつづけることは困難だ」というようなことを書いてあって、おっさんになって生活が安定すればするほど自分に関係ないものがどんどん増えて、興味もどんどんなくしていって、いずれ興味を持てない事柄があることにすら気がつかなくなるんじゃないか。就職したら自分もビジネス書やハウツー本ばっかり読むようになるのかな。まだそういうおっさんへのシフトはきっついなあ。そう弟は書いていたのだけど、先におっさんに片足突っ込んだ兄として、就職するとビジネス書やハウツー本”も”素直に読めるようになるのだと伝えたい。

これは僕の話であって一般論では決してない。けれども一般論っぽい書き方になってしまうことを許してほしい。大人になってくると、社会だとか会社だとか全く気の合わないひとだとか、自分には関係ないようなものと関係っぽいものを持つことになる。関係も興味もないものと関係しないといけないという無理のなかで湧き出てくる興味というのは、しぜん抽象的なものではなく個別具体的なものへのそれになっていく。なにせ目の前の具体的な無理にどう対処すればいいのかが切迫した興味になってくるのだから。
経験の乏しい学生のあいだは抽象と具体では、抽象のほうがしっくりくるから優先度も具体的な事柄よりもずっと高かった。具体的なことを考えるにしても、自分からは遠いというか、自分の生活と地続きであるという感覚が希薄なところで起きる不条理に対して、本気で、けれどもやっぱり抽象的な方法で憤ったりしていたように思う。

けれども就職して、経験がある程度積みあがって、さらにはこれからもっと面倒なことを経験しなければいけなそうだとなったとき、具体の優先度が自分のなかでぐっと上がってきた。具体的なことが、自分事として一気に畳みかけてくるように感じたのだ。ここまでの書きぶりをみて気がつくと思うのだけど、僕の文章はちっとも具体的ではない。いつまでたっても抽象的なことばを遊ばせているだけのように見える。自分の具体的に困った状況をサバイブするためには、具体的な実践が勿論不可欠であるのだけど、抽象的に俯瞰することを忘れてしまっては息苦しくなってしまう。抽象的な文章を書き散らすことが、自分にとってあたらしい風を取り込むための実践であることは学生のころから変わっていないみたいだ。

なにが言いたいのかというと、たしかに僕は就職してビジネス書やハウツー本を手に取るようになったかもしれない。けれどもそれは価値観の転換ではなく拡張だったなというのが個人の実感なのだということだ。
いまの僕の実感からすれば、弟の言う「若者からおっさんへのシフト」というのは、抽象に偏り過ぎたこどもが具体的な経験を得て具体への関心をも得るというだけのことに思える。

上のようなビジネス書感覚と人文感覚をあざやかに架橋する一冊として、若林恵の『さよなら未来』は名著だと思う。具体は抽象を推し進めるし、抽象は具体を支える。両者は対立するものではなく、相補的な関係にあるのだという考えてみれば当然とも思えるようなことがしごく真っ当に書かれている。

だから僕はティム・インゴルドの『メイキング』を読みながらポール・ホーケンの『ビジネスを育てる』を想起するし、『服を買うなら、捨てなさい』を読みながら並行して『優雅な生活が最高の復讐である』と『秘儀と習俗』を読み終えた。関心が具体的な生活とその抽象的な昇華というところにあるから、なにを読んでも自分事として面白い。おっさんになることは、面白がれることが増えることだ。先におっさんになるものの務めとして、こっちもけっこう楽しいぞというアピールをこっそりとしてみたが、どうだろうか。高校生のころ大ハマりしていた怒髪天は「人生を背負って大ハシャギ」と歌ったが、僕からしてみれば人生を背負うことそれ自体が大ハシャギに匹敵する楽しいことだ。具体的な経験を背負っておこなう概念操作はたまらなくスリリングで癖になるぞ。急がなくてもいいけど、一度こっちにも来てみるといいよ。

つまんない大人なんてものはいない。
つまんないひとがいるだけだ。
絶対にそういうことにするから、万が一俺がつまらなくなったらそのときは止めてくれよな。