2019.09.04

もう半年も更新してない! と奥さんが残念そうに言った。結婚してからはこのブログはほとんど奥さんへの私信のようになっているので、便りがないことを残念がるのは当然のことだと思う。学生時代の僕のファンは ──たしかにいたのだ── 結婚してから奥さんの話しかしないこのブログにがっかりしているかもしれない。かつてこのブログには孤独を持て余した個人だけが書ける豊かな何かがたしかにあった。そしてそれは今はもうない。


奥さんのことじゃなくて自分個人の話をまたして欲しい──、そんな要望があるのかといえばないのだけど、かつて存在していてたしかに離れていった僕のファンたちに向けて弁明をすれば、もはや僕は個人ではない、いや、これまでだって個人であったことなどなかった。


最近は「れる/られる」のことを考えている。いわゆる「受け身・可能・自発・尊敬」の助動詞だ。どうして「受け身」が「可能」や「自発」になるのだか、中学生でこれを習った時はさっぱり意味が分からなかった。当時の僕は「可能」や「自発」を能動的な性格のものだと思っていたということだった。しかし今では僕は可能性とは能力の話ではなく状況の話なのだと理解している。ただ受け取るしかない状況のただなかで、自ずと発する情動や行動。それが「れる/られる」なのだなあ、というのが考えの内容だ。これは医学書院の白石正明という編集者がツイッターで『中動態の世界』を引き合いに出しながら語っていたことほとんどそのままなのだけど、まさしく「れる/られる」には中動態の気配がある。


繰り返しになるが、今では僕は可能性とは能力の話ではなく状況の話なのだと理解している。というよりも、個人の「能力」とは、個人と状況・環境との「相性」のことなのではないかとすら思っている。ある行為ができるということは、個人にそれができる能力があるということではない。個人から自ずとその行為が発生する、そういう状況や環境があるということなのではないか。できる人や無能な人がいるのではない。ある状況や環境と相性がいい人もいれば悪い人もいる、ということなのだ。能力でなく、状況や環境に軸を置くこうした考えのなかで、アフォーダンスとかそういう言葉も思い出す。


かなり遠回りをしたかもしれないが、個人に確固としたアイデンティティがあるという考えも、同じように否定できるのではないかと思っているのだ。僕は僕として僕なのではない。僕と周囲の状況や環境との「あいだ」に僕はある。今の僕は奥さんなしには考えられないので、奥さんのことを書くことはそのまま僕のことを書くことにほかならない。だから僕は今だって、学生時代と変わらずずっと自分の話ばかりしているということだ。ただ、自己というものや、能力というものの捉え方が、その軸足がすっかり自分の体の外側に移ってしまったということなのだ。そうなると僕は日々の機嫌のよしあしを予測するために天気予報や気圧グラフを真剣にチェックするようになるし、自分がいい人間であるかないかを奥さんの体調や笑顔で判断するようになる。景気なんかも気になるし、バカみたいに下品な政治家に対する憤りもより切迫したものになる。もはや自分に関係ないことのほうが少ないような気持になってくる。これはこれで困る。the pillows じゃないが僕は奥さんといるのは好きだけれど、ほかの人といると大体具合が悪い。なるべく奥さんと一緒にいたいのだ。奥さんといる状況のなかで、自ずから発するものはいいもののようだし、その状況のなかで僕はわりあいマシな人間でいられるようなのだ。僕は奥さんと一緒にいる時、生活環境との相性がばっちりいい。


そういう人が近くにいて、その人と一緒によりいい状況や環境を作ったり育てたりしていけるというのはほんとうに幸運なことだと思う。


自分や奥さんに限らず、他人に能力を求めるのはもうやめたい。他責的に環境を断じることもしない。あなたとその環境との相性、よくないんじゃない? と考えるようにしたい。各人が気持ちよくその人であれる環境を、ちゃんと作ったり育てたりするのが大事なはずなのだ。


個人の性質は先天的なものであるとか、環境や状況は自明なものであるとか、そういう考え方には与したくない。どんどん不安ドリブンな論法が無理になっていく。不安ドリブンな論法とは「〇〇じゃ(なくちゃ)、××になっちゃうよ」というような物言いだ。そういうのを僕は唾棄する。××になっちゃったら、それは〇〇だった(でいられなかった)個人が悪いのではなく、〇〇か否かが基準になっているその状況や環境が悪いのだ。そんな場所はさっさと下りて、〇〇かどうかを気にせず楽しく生きていける場所を探したほうがいい。幸か不幸か「本当のアタシ」なんてものは存在しない。「ある状況においてこのように振舞う私」があるだけだ。そうであれば、なるべく気持ちよく自分のことを嫌いにならないでいられる状況や環境を探し出して大事にすることこそが肝要で、相性の悪い環境のなかで「本当のアタシ」を「あるべき姿」にむりやり合わせようと努力することなどしないほうがいいのだ。個人の「あるべき姿」も、環境の唯一それしかないような「正解」も、ない。そんなものはない。色んな人がいて、色んな環境がある。あとは相性だ。