2019.10.22

twitter やnote に抱く違和感がいよいよ無視できないような気分があって、でははてなブログなのかというのもよくわからない。自分の立つ舞台や休む家については自分で作るべきではないかという気分のようで、実はこの気分はずっとあるものだった。そうなると既存のプラットフォームに乗っかることにどこまで潔癖であるのがいいだろうか。ホームページを自作したところでサーバーは云々など言い出したらキリがない。そもそも僕の違和感とは、だらだらまとまりも意味も見い出すのが難しいというかそもそもそんなものを求めるほうがバカバカしいと思えるような益体もない文章を書く場所が見当たらないなというもので、そういうことであればはてなブログでいいのかもしれない。僕にとってここはけっこう居心地のいい暗がりというか、アジールだと感じている。


いつも「見みせ前(ぜん)」なんです。「見せる前提」で物をつくっているから、おかしいことに気づいちゃう。だから「自分の中にもうひとりいる」というのは、ずっと「見せ前」でやってきたからこそ生まれた感覚。だから、趣味とは言えないんですよ。

みうらじゅん「仏教伝道文化賞 沼田奨励賞」受賞記念インタビュー  第2回 無理やり好きになってやる https://kangaeruhito.jp/interview/6131


このインタビューがよくて、他人に読まれようが読まれなかろうが僕は文章は「見せ前」であるので、こうしてささやかにでも発表しないと意味がないというかなんとなく収まりが悪いような気がしてしまう。手書きの日記は二週間くらい平気で開いたりもするが続いていて、しかしこれも奥さんが読んでくれるから続いているようなものだった。note に書いているような日記とここに書くことと何が違うのだといえばそんなこと気にするのは「自分の中にもうひとりいる」その「もうひとり」ただひとりだろうと思うのだけどあちらは読むことに比重を置いているので僕も読み返してちょこちょこと直したりもするのに対し、僕にとってこちらはtwitter と同じなのでとにかく手を動かしてなにか文字が置かれていくそれで目の前が一杯になっていくそれだけを喜んで読み返すのは一年や二年経ってからのものだというのが違いで、だからこちらのほうが生っぽいというか、ようするに雑だった。しかしそうはいっても最近のnote はなるべくだらだら書くというのを心掛け始めていてそうなるとほとんどこちらとの差異はないようでもある。それでもなんというか雑でもいいやというか読み返したときこいつはなんでこんなにいちいち一文がまどろっこしく長いんだと辟易とすることをむしろ期待しているのではないかというくらい積極的に一文を引き延ばすその書き方はやっぱり僕にはどうもnote ではやりにくいというか、あのプラットフォームにはどこか人をちゃんとさせてしまうようなところがあってそこが僕は嫌いだった。読みやすさや有益さやシンプルであることだけが知性であるような風潮には抗っていたい。


さいきん一度昔のようにtwitter にだらだら書くというのも試したのだけど、あちらにツリー上に何個もの文章が連なっていくのは端的に怖いし僕がフォロワーだったらうるさくて仕方がないだろうなと思ってもうするまいと思われた。昔の僕はあんなところでうだうだと文字を書いていてどうかしてると思いすらした。何かを発信すること、言葉にして伝えることが、ここまで権威から引きはがされてもなお「ちゃんとしたこと」であるかのように扱われていることが変に思えて仕方がない。アマチュアリズムが足りていないというか、パンクスのDIY精神が足りてないというか、それはつまり巧拙じゃないんだという非正統のやっていきかたというのが、誰しもがこうしてインターネット上に文字を置けるようになったことでむしろソフィスケートされてしまったというか、演奏のうまい人が濫立してむしろ技術を持たないパンクスたちの舞台がより一層狭められてしまったかのような事態が今なのじゃないか。なぜ素人のブログまでもが「いかがでしたか?」と言わんばかりにわかりやすく伝える型にのっとった文章ばかりになってしまうのか。それはむしろバズった記事以外に読まなくなった僕のほうに原因があるのではないかとふと思った、TLを渉猟しているだけではこうした怪文書スレスレの香ばしいブログには辿りつけないということだった。こうしてわざとカタカナを乱発しようと努めてみたが、おそらくもっとできるはずだった、カタカナ語の連発がバカに見えるという気質はどこで育んだものだったか。松岡正剛を反面教師としたのだろうか。千夜千冊は現役の怪文書スレスレの香ばしいブログであると僕は思っていてだから好ましかったので意識したのだがまだまだカタカナが足りていない。ABCと松岡正剛には気をつけろと昔は誰かしらから言われたものだったがいまではどうなのだろうか、むしろ知る人ぞ知るというかイケてるサブカルチャーみたいな扱いなのだろうか。サブカルチャーってさいきんめっきり言わなくなった、それはヴィレヴァンジャスコに入ったころに始まったと僕は言い続けていて、「おげんさん」を見ていてすっかりなくなってしまったのかも、とついに思った。しかしもういい年だし、僕の知らないところで知らなかったり理解できなかったりする文化が蠢いているのだとしたらそれは希望だと思う。むしろ今は起業とかがあのころのサブカルの代替物なのかもなと二三年前は感じていて、それはそれで面白そうだったけれど社交的でないというか社会に対してなるべく邪魔しないでくれ困ったときだけ手伝ってくれと思っているような人間にとってますます息苦しい世の中になりそうだと考えていた。いまでも考えている。役に立つことがそんなにいいことなのかよ、というような。


たぶんここまでで二千字くらいだろうかと調べてみると「2427文字」ということで、ツイートにすると18個ぶんということだった。