2019.12.16

朝出るときに奥さんに「帰ってきちゃだめだよ」と言われる。今夜は文喫で千葉雅也と保坂和志トークを聴きに行くのだったが、昨晩まですっかり忘れていた。あまりにきれいに忘れていたので、このまま忘れそう、と話していたのだった。『デッドライン』は芥川賞候補になったとのことで、しかしまだ読んでいなかった。あまり深く考えずに今日のイベントを書籍付きのチケットにしてしまったので、聴いてから読むというのもいいな、と思っている。今日はON READING で橋本さんがお話しするというので、体が二つ、各拠点にあればよかった、などと考える。来月の大船も行きたかった。それはそれとして六本木と言えば僕はABC で、だから文喫はこれまで入ったことがなかった。ABC で安田登が「イナンナの冥界下り」を演ったのを見たのがあの場所の最後だった。


職場の暖房が効きすぎていて、肌やのどが渇き、熱が頭部に集中する。のぼせたように欠伸が止まらず、人の話がよくわからない、先週の自分の仕事も何がどうなっているのか読み取れない、そういう体たらくで、夜のトークで果たして僕は楽しく話が聴けるだろうか、などと危うく思う。あと、三時間、あと二時間半、そうやって職場で時間をやり過ごしていた。年の瀬の何が変わるわけでもないのに「改まらなきゃ!」と浮足立つ雰囲気が嫌いで、去年もずっと文句を言っていた記憶があるが、今年は人並みに年末進行というような忙しさがあり、そうなるとただただタスクと気配りにリソースを割かれ、単純に疲弊する。この不調はいつもの年末年始嫌いではなく、単なる疲労困憊ではないかと思う。


六本木に着いた時にはすでにお腹が空いていたがぼんやりしているあいだに時間になった。受付で手渡された『デッドライン』をさっそく読みだして、ふと顔をあげると知った顔があり、途端にぱっと顔がほころんで会釈をした。挨拶もそこそこにさっそく喋りだす保坂和志はあいかわらずで嬉しくなる。そのちょこまかと手数の多いしゃべりに、木登りが上手そうだとたぶん本を読んでいなくても感じる。しゃべるように書くことの困難、規範から外れた書き方はバカだと思われるし外れすぎるとオリジナルの言語を作り出しかねない。言葉はちゃんと使われないと危ない、言葉をいじくることは人体改造や自傷と似ている、そんなことを話すお二人を見ている、『ヴィータ』を結局読んでいない。日記やメモのような、普段使いの文体で小説を書くこと、それは確固たる小説らしさの地盤を突き崩し、自らの存立を危うくしながら書くことだ。勢いに任せて、「書かないで書く」こと。勢いだとついつい思いを書きがちであるが、出来事をただ書き散らすほうが面白い、出来事の描写ははじめは苦しいがだんだん楽しくなってくる、それはコントロールできた! という悦びではなく、自分からどんどん離れてテクスト自体が持ち始める流れに身を任せる楽しさだ。一葉の写真を見せられて「これで歌詞を作りなさい」といわれたらありきたりなものしか思い浮かばない。これが歌詞でなく小説だったら、ありきたりにならないようにちゃんと考える。どちらも急に言われてもありきたりなものしか出てこない。とっさの思い付きはだいたい陳腐で、この陳腐さに留まれてしまうか、そこからしっかり考えてありきたりでなさの方に行きたいと思うかが重要なのだと思う。千葉雅也の「はい」という相槌に混じる「うん」が、いやむしろついつい出てしまう「うん」を「はい」で引き締めるような聴き方がなんだかとても魅力的だった。レシピ本の手順通りにしかできない、夕飯の支度に毎回三時間かかるという保坂和志の多動な身体と、料理は「こんな感じじゃない?」でできるという千葉雅也の身体。口唇の感覚、食べること、話すこと、しゃぶること。自分の身体に敏感であること、それをどこか客体としてマネジメントすること。料理は僕は保坂和志が書くようにやればいいんだと思ってできるようになったところがあるので、保坂和志の料理への規範意識というか不自由さは面白いなと思った。


サインの順番を待つ間、店内を見て回る。『分解の哲学』と『他者の影』が気になったが、どちらもちょっと高価で、今月はもう買えない。本屋にいるとき、そこに家族と来ようとも友人と来ようともお互いに知らんぷりで、というよりもただ棚と自分だけで遊ぶ習慣がついている。それで本屋にいる人に声をかけるというのがひどく横暴な振る舞いのように思えてしまうようで、うまく挨拶が出来なかった。それは客同士でもそうだし、作家に対してもそうだった。だいたいの何気ない一言さえも、思考が先行して身体がうまく動かない。だからこそディレイな、とっさの判断を必要としない文章を介したやりとりにほっとするのかもしれない。保坂和志も千葉雅也も、身体感覚の奔放さをそのまま書く。思考はその奔放さをコントロールするためではなく、さらに脱線させるためにこそ駆動する。僕はそういうところに惹かれる。お腹は空き終わってしまったのでまっすぐ帰る。