2019.12.17

『デッドライン』を読んだ。文体こそ無造作だけれど、かなり意識的に構造化された小説だと感じる。この意識的というのは作為的というのではなく、自身の身体感覚に対する解像度の高さだった。昨日のトークでの自分の身体の具合に対するマネジメント、みたいな発言をやはり思い出す。いま性愛が主題たりうるとしたら、それは「まなざす/まなざされる」という非対称性に無自覚なままではありえない。「男性に身体はない」みたいな、雑なテンプレのもと、視覚にだけ特権的位置を与えることほどつまらないものはない。嗅覚と味覚にまつわる記述のいいものが多いのも、音楽による聴覚の鍛錬が詳述されるのも、他者の身体を特権的にまなざす前に、自身の感覚を点検し鍛錬していくことが置かれているようだった。自身の感覚をつまびらかに分析し、構造化したうえで、ぞんざいにブリコラージュする。それは、点検の必要も感じないほどに丈夫な肉体を無頓着に扱うのとは、まったく異質なぞんざいさだろう。胃腸が弱く、運動神経もか細い僕は、「男らしさ」をいつも相対化してまなざしていたように思う。性愛も体調も、自分でコントロールできないところにあるからこそ、そのコントロールしきれない身体に対する解像度を高めて、うまくマネジメントしていくしかない。たとえば僕は、天気予報を、ほとんど明日の体調の予測のためにチェックして、その晩に飲む漢方薬を決めるたり、お出かけのポイントの数を調整したりする。この身体はたしかに僕のものかもしれないが、誰かの分身でもありうる。たとえばきょうの雨の、橋の下の魚の。

コントロールの不可能性を、そのまま「性欲は我慢できない」みたいな破綻した論に持っていくバカに対する嫌な気持ちも、このマネジメントの感覚からきているのかもしれない。すべてを支配下になんか置けない。ただなるべく円滑に流れに身を任せること。そうやって日々点検と調整を怠らずになんとかやっていく。その勤勉さは、ときにもういっそ全てをうっちゃれるくらいの暴力的な快楽に身を任せたいというような欲望をはぐくむかもしれない。僕はいつもここで立ち止まる。すべてをうっちゃれるくらい気持ちのいいことへの憧れを抱きつつも、いつも暴力への忌避感が先に立つ。

 

「機嫌よく旅路を進めるためにもっとも大切なことはなにか。言うまでもなく、おやつである。」ここで、やっぱりこれは非常に信頼ができる雑誌だ、と思う、『LOCUST vol.3』を読み終える。機嫌よく生活をやっていくためにもっとも大切なことはなにか。言うまでもなく、おやつである。どんどん使っていきたくなるフレーズだ。


朝から晩まで気圧がだだ下がる昨日は仕事に身が入るわけもなく、だいたいぼへぼへと過ごす。会社の外のことに関してはやたら勤勉で、多動だった。各種ツールで滞りがちだった連絡を打ち、Google カレンダーに予定を書き込んで頭のなかを整理する。うん、なんか忙しくなりそう、ていうかなってる、と一目でわかる。可視化されるというのは中々バカにできないもので、だいぶ気持ちがさっぱりとした。どう考えても増刷分が無事に刷り上がるか否かという待ちの不安に脳内のメモリの大半が食われている。残されたわずかなスペースでどうにかやりくりしていこうとしているが、ちょっと無理そうなので整理できてよかった。「僕は、印刷が無事であるかが不安」と書き出すことで、不安は不安のままだし状況は何一つ変化しないのだが、そうか、不安なんだ! と納得できるというか納得しようと思える。言葉やそのほかのツールを駆使して漠然とした不安や嫌な気持ちに形を与える、形さえあれば対処できる。長年の呪いみたいなものも、正体さえはっきりして、そうか、この思い込みは呪いだったのかと気がついた時、もうほとんど解かれている。名指しさえすれば、操作できる。『ゲド戦記』は読んでいないのだけどそういう話だと聞いた。いつか読んでみたい。