2020.01.14

朝はヤシャ・モンク。面白いが勤勉であることをこうも肯定されてしまうとなんだか居心地の悪さを感じる。トム・ルッツ『働かない 「怠けもの」と呼ばれた人たち』もそうだったが、アメリカにおける勤勉というものの美しさというか重要さというのはここからはあんまり想像もつかないものなのかもしれない、などと感じる。それはともかく、前制度的な感情論ではなく、杓子定規な制度設計にこだわることこそが共同体の最大幸福を担保しうるという考え方はとても好ましい。制度はたしかに不自由かもしれないが、その不自由が担保する安心や尊厳というものがたしかにありうるのだ。人間と違って、ルールは手続きなしにブレないはずなのだから。ここまで書いて、この大原則にわざわざ「はず」などと付けなければならないこの国の政治の現場はやはり狂っているなと思う。正規な手続きを踏んだ杓子定規な制度が、たかが個人の感情や印象によって恣意的に遵守されたり無視されたりすることがなぜダメかって、制度に対する「まあ今はこうなんだから一応は従っておこう」という前提そのものを毀損するからだ。もともと人間なんて信用できないものなのだから、せめて制度に基づいてやらかさす可能性を最小化しようね、というのが制度設計の前提であって、それを運用に近い位置にある人たちが率先して損ねていくさまに僕はつよい嫌悪を覚える。従うことに妥当性を感じられないルール、あるいはルールの不在は、過度な自己規制しか生まないはずで、オーウェルディストピアは為政者の強権ではなくむしろ制度の不在によって実現するのかもしれないとまで思いかける。制度が可塑的であるべきだということと、制度を恣意的に運用していいということとは、まったく違う話で、後者の肯定はむしろ前者の可能性をも潰しかねない。サッカーをしようと誘われたのにいざ集まると幹事の気まぐれで野球が始まるようでは誰も満足に遊べない。たとえ野球のほうが嬉しいなという気持ちがあったにせよ、一度このルールで遊びましょうと決めたものを途中で急に変えられてはそもそもゲームが成り立たない。準備するべき道具だって違うのだから。もし野球がいいというなら、お誘いの時点でサッカーでなく野球をやりたい旨をみんなに伝えて検討するのが妥当だろう。さっきまでサッカーだったのが急に野球になりかねないという状況では、この検討の機会すら持ちようがない。議論の結果決めたことすら簡単にひっくり返ってしまうのなら、そもそも論理だった話し合いなど空しい。制度に対する「まあ今はこうなんだから一応は従っておこう」という前提そのものを毀損することは、「いや、いまよりマシなあり方ってあるでしょ」と建設的な議論を行う足場そのものを毀損している。


昼休みに上の文章を書いて、あれ、なんかきょう怒ってるな、と思う。いや、書いたようなことにはいつも怒っているのだけど、『自己責任の時代』をきっかけに怒りの表現が誘発されるようだった。制度の恣意的な運用が引き起こす制度への不信感は、個々人への過剰な帰責を正当化する、いやいや、そこで考えなくちゃいけないのは個人の責任能力の有無の前にまず制度そのものや運用のマズさでしょうよ、という怒り。


十分な量になったので今日の日記は昼までで終わり。