2020.02.01

小一時間しかいられなかったけれど、本屋博は楽しかった。お祭りのブースはお店と較べてもちろんスペースが限られていて、品数はそう多くない。そんななかに『プルーストを読む生活1』を選んでもらえたことが嬉しくて、各店挨拶に回る。挨拶と共にウルフや本屋博のZINE、大前粟生などが買われた。売れているようで嬉しい。お店に置いてある本は、本当に買われているのかどうかわからず、それは僕の好きな本屋で、僕の本はすこしでも似合っているだろうか、役に立っているだろうかという不安で、だからちゃんと売れているとものすごく嬉しい。今回はtoi books さんの『全身が青春』と、HABさんの『hibi/ どこにいても本屋』が目当てで、牟田さんの日記も欲しかったがすごい勢いで完売が続き藤原印刷さんのブースでも完売との報をTwitter で見ていたので諦めていたのだけどじっさいに行ってみるとまだあったのでありがたく購入。日記フェアに遊びに行く前からずいぶん日記づいている。Title に追加納品に行った際も、なんだか日記がブームですねえ、という話があった。古本はひやかしだすと時間が溶けるので自制。でも楽しそうだったので車の中にはすこし入ってみた。Cat's Meow Books は、WEBmagazine 温度の年末イベントでの店主さんのビブリオバトルを見て以来ずっと気になっていて、ブースに近づくと店主は猫だった。あと10分で電車に乗らないと19時からの『キャッツ』に間に合わない、でも、もう人型の猫は見たし、いいんじゃないかと一瞬思いかけた。電車に駆け込んだ。


もっとゆっくりみたかったなあ! と思いつつ、ABC でドミニク・チェンの新刊を買おうと思ったら手持ちが足りないくらいには買っていて、もういいんじゃないか。シネコンのくだらない広告や寸劇がまだ流れているころに席に着く。あと5分はゆっくりできたかも、と思う。映画の予告編以外の情報はぜんぶ余計だ。トム・フーパーの『キャッツ』。日の出と共に終わる一夜の出来事で、出来事というのはさまざまなバックボーンを感じさせる猫たちが裸踊りを披露するというもので、大筋あるいは物語の不在という意味では『死霊の盆踊り』に酷似している。しかしトム・フーパーは映画が巧かった。良くも悪くも。『レ・ミゼラブル』もそうだが、情感たっぷりの歌唱を辛気臭い顔をアップにしてみせるの、悪趣味だと思う。ほら、泣け、かわいそうな娼婦が全身を打ち震わせて歌ってるぞ、みたいな。いろいろ最悪だ。俳優はみんなよかった。僕のお気に入りは気狂い帽子屋ことスティーブン・マックレー、車中で熱唱おデブちゃんことジェームス・コーディン、そしてレベッカ・ウィルソンはそういえば作品を見るのは初めてだったがとても素敵だった。お茶目なイアン・マッケランは好きに決まっている。つまりほとんど皆すてきだった。余計だったのは顔のアップと、よせばいいのに半端に物語的な起承転結をつけようとしたことで、トム・フーパ―のロマン主義だった。ダンスシーンに特化して極限まで物語を排除したという点では『死霊の盆踊り』のほうが上手だった。あと、『死霊の盆踊り』は映画が壊滅的に下手だったからこそ意味付けられ欲望される以前の人体をただの人体として撮ることができたが、映画の巧い『キャッツ』は──スタッフに猫しぐさのスペシャリストまでいるのだ!──イドリス・エルバテイラー・スウィフトの全裸の生々しさを脱色することができない。人型猫の短毛種はやばい。あまりのすっぽんぽんっぷりに、ついついイドリス・エルバ股間に目が行く。すると絶妙にそのつるんとした股間テイラー・スウィフトの顔や尻尾が被さってくるのだ。秘匿される股間。つまりそこにはエロティシズムがあった。この映画におぞましさがあるとしたら、猫が犬ではないと理解することができても、猫が人間であるという倒錯からは逃れられないかもしれないと人々が気がついてしまうからだ。獣の身体のエロティシズムは、人体のそれとは違って非常に臭うようなのだ。映画における人間の人間へのエロいまなざしが他人のセックスを覗き見るようなものだとしたら、『キャッツ』における獣を獣として撮るあけすけさには自分の肉親の現場を目撃してしまったかのような生々しさがある。それでもなお、猫たちは人間にしか見えないのだ。微かにエロを感じるからこそ、観るものは猫たちの生々しさへの嫌悪感を募らせるのかもしれない。『聖なるズー』を読みたくなってきた。


と、昨日のつづきを書いていたらもうずいぶんな分量になってしまった。今朝も引き続き『不道徳お母さん講座』。道徳観の変遷を丁寧に丁寧に追っていく。明治のころに急ごしらえで作った不具合に、いまだに困らされているんだなというのがよくわかる。また、家父長制がブイブイいわしていたころの男たちのキモさもすごい。恋愛が個人で出来る革命であった時代は、このキモさに回収されることで限界を迎える。イエに対する個人の対抗としてあったはずの恋愛は結局イエに帰着する。それならば、と目をつけられたのが母性だったという論の運びにははあ! となる。過去の関係ならば美化する一方で壊しようがない、なぜならそれはいま現在の実際問題とは無関係だからだ。そういう発想で、個人の自由を母子の親密さに求めていったのではないか、というようなことが書かれていて、面白かった。僕は恋愛というものが抑圧装置として機能した時代に思春期を過ごしたので、恋愛に対する反骨精神がわりと強いのだけど、それが安直な「おうち大好き」という反動でなかったかというと心許ない。

共同体に帰属しない、まったき個人というものを突き詰めていこうとすると恋愛や母性に行き着き、それは結局イエに回収されてしまう。たぶん多くの人がそれに気がついていて、だからいまは個人を徹底的にリバース・エンジニアリングしていく段階なのかもしれない。けれども徹底的な個人化の先にあるのが、懲罰的な自己責任だと息苦しい。個人だとか自由だとかいう、誰もが無条件に肯定しかねない価値をこそ、いま一度問い直すことが重要なのかもしれない。それこそ、責任を自己実現のポジティブな要素として捉え返すようなことが。


『自己責任の時代』を読んでいても思ったが、ひとりひとりの生活の独自性と、一意である制度というのはどうやったって相性が悪いと同時に依存関係にもある。ミシェル・ド・セルトーが『日常的ポイエティーク』で描いたように、現場の狡知、〈メティス的〉な節約原理は、統一の規格のもと効率化を図る制度や仕組みを内側から解体し、その限界を露呈させてしまう。それは地べたで生きる僕たちにとっては智慧であり希望だが、管理者や為政者による制度を前提としてしまってもいる。個人と全体という対立構造とは別のところで考えることはできないものかな、と考えてはいつもわからなくなる。わかるのは、とにかくおのおの楽しくいい感じに生きていきたいね、ということだけだ。