2020.03.27

眠りが浅かったらしく朝からぐったりしているが、頭のなかは忙しなく動き続けており、今朝は『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち』を楽しく読む。

どうやったら無理のない範囲で、なるべく平穏なまま、楽しくできるかなあ、ということを考えていて、勤務中もそればかりで労働に身が入らなかった。こればかりは僕は両立できるほど進研ゼミではないようだった。

そう思っていたが、勢いのついた頭の回転をもって普段以上にバリバリ仕事してしまった。僕の職場ではパフォーマンスの出来高と攻撃力とがほぼイコールみたいな風土がややあり、それはとても嫌なものなのだけど、たまにこうやってうまくノれちゃったりする。そのたび己の攻撃性におののく、というか、引く。


為政者のクソさと、提示される疫病への処し方の妥当性は、分けて考えるべきだった。好きなお店の判断のひとつひとつに、怒りと冷静さとが混在している。専門知への信頼は失うべきではなかったが、専門知の公開の仕方を恣意的に管理したり、具体的な補償もなしにただ「空気読めよ」とでもいうように投げっぱなしにするのであれば、為政者はいらないので、直接専門家だけが声を持てばいいと思う。

オリンピックの中止だけがせめてもの救いだな、と思っていたのに、そういうのは手際よく延期に持ち込むんだな、というあたりから言い様もなく怒っている。

政治を経済の論理で回すなら、せめて納税者に税金の使途をもっと選ばせてくれないかな。都も国も、あまりに価格に見合わない買い物だ。こんなものが生活必需品であるとは、すごい嫌だ。などと雑な暴論をブツクサしたくなる。した。しかしこれは雑な暴論なのだろうか、たぶん多くの人が、冷静でちゃんとした政治への怒り方を知らない、知らないという正常な謙虚さが、僕たちのことはバカにしてもいいという自信を為政者に与えてしまっている気がしていて、もどかしい。政治をまともに語れるための言葉や理論を、もっとちゃんと勉強したほうがいい。そういう読書会をしたい。言葉を覚え、理論を得ることは、ちゃんと怒るためにも必要だった。というより、無知を自覚することが、怒るに怒れず、不当に扱われる自分を自分でよりいっそう抑圧することを促すのであれば、無知はまじでクソだった。

クソには自信を持ってクソと中指を立てたい。そのための理論武装をちゃんとやろうと思う。