2020.03.26

お米がなくなりそうなので近所の業務用スーパーに買い出しに行ったら流石に混んでいる。周りの人たちが何を買い溜めておくのか、それを見るのは興味があった。酒とカップ麺かな、と思っていたが、そうでもなく、野菜が多く買われていた。こういうとき、家というのはやはり最後の砦たりうるというか、最後の抵抗の場なんだよな、なるべく楽しく過ごしたいな、と思う。レジの人はみな快活で、気持ちよく人の濁流をさばいていた。格好よかった。


人酔いしてぐったりしたので窓を開け、勝手に動いてくれる可愛くて頼もしい掃除機を起動し、コンロを入念に磨き、夕飯のカレーを作り、昼はカレーうどんにして食べた。ZINE のレイアウトを仮決めして、あとは原稿を待つばかり。


きょうはひたすら本読もう、とスピーカーから音楽をかけ続け、四冊くらい序章をつまみ読み、がっつり読んでいくものを決めていった。黒鳥社の気分から『我々は人間なのか?』を手に取り60頁ほど読む。WIRED の最後の記事で触れられていた手斧の話がやっぱりいい。酒井隆史から『この社会で働くのはなぜ苦しいのか』。これもまたよさそうだ。一言一句に頷く。そして次は『大洪水の前に』。何度手にとってもうっとりするきれいさ。きれいすぎるのでカバーを外すとこれまたきれいだった。序章を読んでわくわくする。これもこのまま読んでいきたいが、今ではなさそうだった。江戸の読書会の気分から『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち』。これがべらぼうによくって、良すぎてこれは外でも読めるので明日から用にリュックに詰めることにした。

 

本書は楽しさを正典形成プロセスの主要な推進力として位置づける。楽しさには解放的な側面があるが、それゆえ女性が楽しみのために何かをするのははしたないこと、女性らしくないこととして、軽視あるいは危険視されがちだった。女性ファンとシェイクスピアのかかわりを見ていく際に、できるかぎり彼女たちの楽しさの経験をひとつひとつ拾い集めて、シェイクスピアの普及の過程に接続していきたい。

楽しさを考える上で最も重要なテクストが、ロラン・バルトによる『テクストの楽しみ』だ。バルトはこの著作で、一見受動的にテクストを受け取るだけの読みの行為を、創造的で楽しい知的活動として定義しなおした。読者が楽しみを作り出す主体なのだ。バルトはテクストから得られる「楽しみ(plaisir)」と「歓び(jouissance)」を区別し、楽しみはすでに読者がなじんでいるものから得られる一方、歓びは未知のミステリアスなものとの出会いから生じると規定した。テクストが何をもたらすかは受け取り手次第で、あるテクストがある者には楽しみを、別の者には歓びをもたらすこともある。さらに歓びは楽しみと区別がつけがたいこともあり、バルト自身が区別の曖昧さを認めている。前述したカーモードはバルトの議論を引き継ぎ、テクストが正典と見なされるためには、読者がそこから楽しみと、なじみの薄いものとの出会いによって生じる「狼狽」(バルトが言う「歓び」にあたるもの)を受け取る必要があり、解釈の変化に応じて楽しみや狼狽が更新されていくことで正典が正典であり続けると論じる。本書はこうした主張を踏まえ、正典形成において読者がテクストから見いだす楽しさを重視する。読書や観劇といった一見、受動的な行為は積極的な楽しさの追究なのだ。黙って本を読み、座っておとなしく舞台を見ているだけで、すでに我々はとても生き生きとした楽しみの活動を行なっている。

北村紗衣『シェイクスピア劇を楽しんだ女性たち』(白水社)p .14-15


いつも本を楽しみ、本に歓ばされ、本に驚いていたい。

読むのが楽しみだった。文化の受け手側の話はいつも面白い。『日常的実践のポイエティーク』を想起し、やはり言及されていた。密漁としての読書。


それで、気分はややマルクス寄りだったのだけど、なんとなくもったいなくて、樫村愛子から始める。

 

ル・ゴフは、現実的なものの機能不全を強調して実験的とされる経験を評価し、生き残りと緊急性の適応論理 (cf. 「ショック・ドクトリン」。災害・戦争など大惨事につけこんで実施される過激な市場原理主義改革)で人々を駆り立てる現在の状況に「全体主義」との類似性を見出し、「ポスト全体主義」と名付けた。そして「全体主義」と「ポスト全体主義」の両者の類似性を、「内部分裂の否認と拒否」に見た。また、両者の差異については、「全体主義」には、「一者」幻想、「大いなる知」(マルクス主義等々)への従属、プロパガンダがあるが、「ポスト全体主義」は多元主義や多様性を主張し、不確定性を推し進めるとした。しかし、「ポスト全体主義」は多元主義や差異への権利を謳ってはいても、その内容と真に直面することは避け、自律、創発性、多様性という名の下において諸個人を同じ鋳型に押し込める。また「ポスト全体主義」では、「全体主義」のように「法則の統御」を主張せず、「生き残り論理」を主張する。言説は非一貫的で、専門家の知を操作し、コミュニケーションを手段として使う。コミュニケーションについては、対話や協議を賞賛してはいても、一種の隠蔽を行うことによって、現実には対話や協議を不可能にし、交流の象徴的次元を解体する。

樫村愛子『この社会で働くのはなぜ苦しいのか』(作品社) p.140


夜に文フリの中止の報が届く。

憤りと矜持が滲み出ながらも抑制のきいたいい文章で、参加費は寄付することにした。

蛙のイラストでストレスとの付き合いかたをパターン化したものがTwitter で流れてきたらしく、奥さんはそれを引いて「認知再評価型夫婦なので文フリ中止に対して過剰にやる気を出している」と呟いた。

それはその通りで、かえってやる気を出して発表の場をどう自作するかで盛り上がり、さっそく方々に連絡を始めた。

なんだかんだ怒りは行動に直結する。俺は今猛烈に楽しくなっているが、それは怒っているからであって、怒るようなことが起きていること自体はまじでダメダメなのでそこのところは勘違いしないでください。