2020.05.11

一か月以上ぶりの通勤。『灯台へ』を読み始めた。電車は嫌いだが電車が一番本を読める。嫌いすぎて電車にいるという現実をなるべく忘れていたいからだと思う。状況から目をそらすために、ほかのことに没頭していたい。そういう特に褒められたものでもない必要が、いい効果を導き出すことだってある。

 

Twitterでは「#検察庁法改正案に抗議します」のことしか考えられないことになっていて、この件について僕は、明らかに違法な法解釈の正当性を後出しじゃんけんのように成立させようとする、そういうルールの重要性を軽視するような行いをほかならぬルールを制定する人たちがやらかしていることに何より異議を唱えたいというスタンスでいる。

ここにきて賢くて物分かりのいい人たちの「冷静な」クソバイスが目立ってきてたまらなくなったため、今日はついつい連投を繰り返した。「素人は黙っておけ」という抑圧に対する僕なりの応答。

 

「あいつらは現場を知らない」という専門知の軽視と、「偉い人だから偉い」みたいな生徒根性とが手を組んで、追及の矛先を、有害な為政者たちでなく、知識や技術の不足を自覚しつつも実践してみる誠実な素人たちへと向けるの、毎回ゲンナリする。

生徒根性とは、ただ声が大きいだけの素人を「先生」として、その人のいうことをきいていればいい、「生徒」である自分たちは正解を与えられる側であって作る側でも問い直す側でもない、みんなだまっていうことをきいていれば間違いないのにわざわざ無知を晒すのは愚か。そういう態度のことです。

自身の視座を特権化して人を見下すことで満たされるプライドも、「先生」に褒められそうな言動によって得られる安心感も、はっきりと有害なので捨て置いたほうがいい。どうせみんな何かについて素人なのだから、「無様」を晒して不安のなかやってみればいい。それは決して無様なんかではない。

素人が無責任に間違えないでどうするんだ、と思う。素人の違和感に納得のいく論理的説明がなされないことがまず不正だ。「無責任かも」とか「間違ってるかも」とか、思慮深い素人たちが沈黙しているうちに、責任感も思慮深さも欠如した人たちがのびのびとやらかす。

そういうの、もううんざりだ。

無知で浅はかだから感情的になっているんじゃなくて、あまりに酷い不合理や論理の破綻に憤っているんだというのが、簡単に見えにくくなってしまうから政治の話は難しいんだと思う。論理というのは、「こうとしか考えられない」を一つ一つ積み重ねていくものだから、まったく難しいものではない。一から十まではよく理解できないことでも、うまく言語化できなかったとしても、論理が破綻していることは素人にだってわかるものなのだ。論理というのは、そういうオープンなものだ。かなり多くの人がちゃんと使えてる。おかしいと思ったら、それはちゃんと論理的思考が働いてるから堂々とおかしいと言っていい。

 

Twitter では以上のようなことを書いた。140字の制限があるからこそ面倒な言語化を試みることができる。日記のために改めてやり直そうと思ったら面倒くさくなってしまったので短文を強制される効能を思い知った。

 

せっかく一か月以上ぶりに居住区の外に出たので、職場の近くの大型書店に駆け込む。大型書店は僕は深呼吸のためでなく目的外のために行くので、目星をつけていたものだけを最短距離で買う。岸波さんが紹介していた詩集、友人が言及していたみすず、そして文庫のつづ井さん。

 

夕方には帰宅して引き続き業務。終え、『憎しみに抗って』の序文を読む。すでにすばらしい。憎しみは常に垂直方向に働く。上から下に、下から上に。僕もうっかりすると為政者を憎みそうにもなるが、踏ん張って、いやいや論理が破綻してますよね、という態度に踏みとどまりたい。できているかな。僕はとにかく理屈の通らないバカが嫌いなのだ。早速できてないな。

 

(…)もし数年前に、私たちのこの社会で再び人がこんなふうに話すときが来ると想像できるか、と訊かれていたら、ありえないと答えただろう。公共の場での議論がこんなふうに野蛮になるとは、こんなふうに際限なしに人間に対する誹謗中傷がまかり通るようになるとは、私には想像もつかなかった。人間同士の会話とはどうあるべきかというこれまでの一般的な常識が、ひっくり返されたかのようにさえ見える。まるで、人間同士の付き合い方の基準が、まったくの正反対になってしまった──つまり、他者を尊重することを単純かつ当然の礼儀作法だと考える者のほうが、自分を恥じねばならない──かのようだ。そして、他者を尊重することを拒絶し、それどころか、できる限り大声で誹謗や偏見を叫びたてる者こそが、自分を誇らしく思っているように見える。
だが私は、なんの制約もなく人を怒鳴りつけ、侮辱し、傷つけることが許されるのを、文明の発展の結果だとは思わない。自身の卑少な内面を外部へと投影することが許されるのを、進歩だとは思わない。最近ではそういうふうに自身のルサンチマンを外へと露出することが、公的な、それどころか政治的な重要性をさえ持つとされるようになっているが、多くの人たちと同じように私もまた、そんな風潮になじみたいとは思わない。憎しみをなんのためらいもなく表現したいという新たな欲求が、当然のものになるのを見たくはない。この国でも、ヨーロッパでも、それ以外の場所でも。
カロリン・エムケ『憎しみに抗って』浅井量子訳(みすず書房)p.13