2020.06.20

全共闘以後』の終わりが見えてきた。
9・11以降の「まったく新しい戦争」は、日本ではオウム以後つねに起きていたのだという論が面白くて、というか、COVID-19 によって引き起こされた「衛生観念」の強化というのは、オウムの時の「セキュリティ」のそれと相似だった。

 

9・11テロがもたらした最も顕著な変化は、セキュリティ(安全保障)に対する配慮の未曾有の高まりである」とも大澤は言う。単にタリバンアルカイダなど国外の敵と実際に戦闘をおこなうのみならず、「ネット上の通信を含む、生活のあらゆる局面に対する監視が徹底的に強化されたこと、言論の自由すらも、事実上、部分的に停止されたこと、他国の主権下にある領土にまで、米軍が警察のように送り込まれつつあること……」。
大澤の分析は的確である。しかしここまで分析が進めば誰でも気づきそうなものなのに、なぜか大澤が決して言い出さないことがある。 つまり01年9月にアメリカで起きたことは、そのまま95年3月に日本で起きたこととまるっきり同じではないか、ということだ。
地下鉄サリン事件を機に日本は、"まったく新しい戦争"に突入した。軍隊ではなく警察が前面に立つ戦争だ。オウム信者たちを摘発するためにそれまでは考えられないレベルの微罪逮捕・別件逮捕が連発され、それに異議を唱える者は「オウムの味方、テロリストの味方」であるかのように非難された。そもそも異議を唱える者自体がほとんど存在しなかった。左翼もリベラル派も完全に沈黙したし、もともと共産党員だった有田芳生江川紹子をはじめ、警察の尖兵を務める"リベラル派文化人"も後を絶たなかった。「オウムは特別だ」などと言い訳をして警察の強引な捜査手法を擁護するリベラル派も大勢いたが、"オウムが特別" である保証などどこにもなく、実際これ以降は新左翼諸党派に対しても無党派市民運動に対しても共産党に対しても、集合郵便受けにビラを投函するためにマンションの敷地内に入ったのが不法侵入であるとか、ホテルに偽名で泊まったのが私文書偽造だとか、オウム事件に対して連発されたのと同じ手法での"弾圧"が日常茶飯事となるが、オウム事件に際して何ら声を上げなかった連中にそれを"弾圧"だなどと非難する資格はあるまい。

外山恒一全共闘以後』(イースト・プレス) p.369-370

 

「セキュリティ」も「衛生観念」も、監視や管理を強化してしまう。それも、誰も反対できないような方法で。
先日も40人以上の感染者を出しておきながら、もはや橋を赤く照らし出す謎のパフォーマンスさえせずに「自衛」のもと平常に戻ろうとする都政をみていて、これまでこんなもんに合わせて右往左往したり、いまでも根拠薄弱なまま右に倣えで平常運転に戻ろうとしている会社に対して、なんなんだろうな、という気持ちが募る。無邪気すぎやしないか。それは、僕もそうだった。自粛というからには、自ら進んで行動をつつしまない選択肢だってあった。今となってはそんなことさえ考えるが、そうすることによってのリスクと同じリスクを犯していまこうして経済活動の再開に加担している。

 

先に引いた大澤の論考を承けて、外山恒一は次のように書く。
あの日を境に、日本社会は決定的に変わってしまった。
地下鉄サリン事件がもたらした最も顕著な変化は、セキュリティに対する配慮の未曾有の高まりである」と我々は言ってもよい。多くの日本人が、決定的なことはもはや何も起こらず、平和ではあるが退屈な「終わりなき日常」が、これから延々と続いていくのだと半ば諦観を含んで思い定めつつあった時期に、突然それは起きた。一見平和そのものに見えた我々の社会の内部に、「わけのわからない危険な連中」が、いつのまにか大量発生もしくは浸透していることに、突然我々は気づかされた。オウムだけではない。北朝鮮工作員外国人犯罪者、ストーカー、「20代無職男」、キレる子供たち、キレない子供たち(引きこもり)、我が子を虐待する親もいれば、少女を7年も自宅に監禁する青年もいる。よくよく考えればどいつもこいつも怪しい。しまいには、ゴミをきちんと分別しない奴や、繁華街で歩きながらタバコを吸って平然としている奴まで、不気味な犯罪者予備軍に思われてくる。何とかしなくてはいけない。
我々は団結して、「良識ある市民」の共同体を防衛しなくてはならない。しかし「敵」は、一見フツーの市民のような姿をして、我々の共同体の内側に、何食わぬ顔でまぎれ込んでいる。異常な犯罪が露見するたびに、周囲の人々は、「とてもそんな大それたことをやるような人には見えなかった」と口をそろえるではないか。我々は警戒心を研ぎすませて、どんな些細な兆候をも見逃すことのないようにしなければならない。兆候は必ずあるはずだ。怪しい奴、不気味な奴、ヘンな奴、アブない奴、要するに我々の「良識」に照らしてよく分からない奴、分かりにくい奴に対して、監視の目を怠ってはならない。奴らはきっと「何か」やる。その前に、つまりその「何か」をやらかしてしまう手前の段階で、奴らをすみやかに摘発し、除去しなくてはならない。そのためには、法を整備しなくてはならない。これまでなら大目に見られていたような軽犯罪レベルの違法行為──つまり「兆候」の段階──を、今後は容赦してはならない。のみならず、これまでは軽犯罪ですらなかったさまざまの不愉快な”迷惑行為”についても、摘発の対象とし得るように、新たな法律を制定しなければならない。
こうして、「警察の権限の未曾有の強化と前面化」が始まる。
日本の反戦派が見落としているのは、戦争は遠くアフガンやイラクではなく、他ならぬこの日本国内でおこなわれているのだということだ。
(「戦争は遠いアフガンやイラクではなく、他ならぬこの日本国内で起きている」04年)

同上 p.374-376

 

とにかく外山恒一は、有名な政見放送もそうだったが、論理展開が端正で、文章が巧い。勤勉なひとの文章だ。オリジナリティの部分で露悪的になってしまうのすら、諦念のようなものを感じる。とにかく読み、書くことに秀でた人なのだろうと感じる。

 

仕事終わりに奥さんとデートに出かける。片道20分ほど歩き、おいしいカレーを食べる。お酒は二杯ですっかり酔っ払った。歌い出しそうな千鳥足で帰る。