2020.05.12

朝起きるとべらぼうに調子が悪く、何度も寝込む。その割にまじめに働いて、あいまにウルフ。ある人物に対する印象の移ろい、その描き方が非常に巧い。プルーストのように何ページもかけて移ろいを描くのでなく、数行で端的に流動的な印象を描き切ってしまう。すごい。一晩のうちに十年近い時が流れる。

 

(…)エリボンによれば、狂信や人種差別に特に走りやすいのは、否定的な体験を通して自己を形成する集団や環境であるという。サルトルはある種の集団を「集列」と名付け、それらは制約や障害が多い環境に受け身で無反省に適応していく過程を通して自己形成すると述べる。すなわち、こういった「集列」をつなぐのは、社会の現実に対する無力感なのだ──なんらかの課題や理想に自覚的、積極的に自己投影することではなく。

エンリケ・エムケ『憎しみに抗って』浅井量子訳(みすず書房)p.40

 

トランスジェンダーがほかの人間と同じ社会的認知を求める理由を説明せねばならないのは、トランスジェンダー本人たちではない。トランスジェンダーにも他の人間と同じ主体的権利、同じ法の保護、公共の場所に立ち入る同じ権利があるのだと説明せねばならないのは、本人たちではない。自身の生き方を正当化せねばならないのも、なぜトランスジェンダーにも個人の権利と自由があるのかを説明せねばならないのも、本人たちではない。説明せねばならないのは、彼らから権利を奪おうとする者たちのほうだ。

(…)社会がトランスジェンダーに自由に生きる権利を与えたからといって、誰もなにかを失うことはない。誰からもなにかが奪われることはない。誰も自分を変える必要はない。どんな人も家族も、自身の思う男らしさ女らしさを否定されることはない。ただ、トランスジェンダーにも、健康で自由な人間として、ほかのあらゆる人間と同じ主体的権利と、国家からの保護を認めるべきだというだけのことだ。そうしたからといって、誰の権利も侵害はされないし、誰もないがしろにされることはない。むしろ、皆が自由で平等な人間としてともに生きる余裕が生まれることになるだろう。それこそが、いま我々がしなければならない最小限のことだ。トランスジェンダーに個人としての自由を認める仕事が、トランス ジェンダー本人に押し付けられてはならない。迫害され、ないがしろにされる本人が、自身の自由と権利のために闘わねばならない社会であってはならない。皆が同じ自由と権利を持てるようにすることは、我々全員の仕事なのだ。

同上 p.143-144

 

寝るまでエムケ。心身ともに弱る、この状況にも、暑さにも、そういう感じで、一日体調が悪かったのだけど、エムケを読んでいるといちいちグッとくるようで、助かった。行為者でなく行為を追及すること。その行為に至った理路を分析すること。そうしてその行為の正当性がないことを明らかにすること。ナマの情動がそれ自体で的確な論点たりうるなんてことはないとはっきり言い切ること。

他者に対して不愉快なものを感じとるような情動は、熟慮を経て、公での議論に耐えうるだけのフィルターを通して初めて表明に値するということ。そのような社会の成熟を望むこと。個人の自由を尊重するというのは、個人の拙速な情動の表明を保障するものではない、そうではなく、あらゆる個人が、その人らしくのびのびとあれるようにするということだろう。

 

他者と自分との間に線を引く「素直な」感情というのは、手放しに肯定されていいものじゃない。その「素直さ」は、自らを規定する構造に対してあまりに盲目であるし、自らの感情に対してあまりに解像度が低い。そんなことを考えた。