2020.05.13

昼休憩に『灯台へ』を終える。特に第三部は、独身のうちに読んでおきたかった、とすこし感じた。体質としてリリーの視座に共鳴するのだけど、結婚してからどうしても独身者の感覚に対する解像度はどうしたって低くなってしまったように思う。孤独よりも、関係の機微に敏感になったということだろうか(言うまでもないが、これはラムジー夫人のような「みんな結婚するべきだわ!」という雑な一般化ではなく、僕の場合はこうだ、というだけの話だ)。というよりも、リリーのように、ラムジー夫人の孤独に対して盲目であれないということかもしれない。自分一人で自分と向き合うようにいることで感じる孤独と、関係のただなかで一人のうちに生じる孤独は、質が全く異なるはずだった。

しかし、読んでいていちばん思ったのは僕の家での振る舞いはほとんどラムジーそのものじゃないかということで、それはあまりいいことではない。自らの横暴さに自覚的であるだけでは、自体は何も好転していない。身勝手さを認めつつも、他者とうまくやっていく。いつまでも難しい課題だが、できないことではない。特に奥さんのような理知的でチャーミングな人とであれば。毎日毎日新鮮に、もっとこの人と気持ちよくいい感じに暮らしていきたいな、もっとできるはず、と思う。気遣い。

 

仕事終え、エムケ。第一部では、見つめケアし思いやるべき「我々」と、無視したり軽んじたり傷つけてもいい「他者」と分かつような個人的な感情──「恋」「希望」「懸念」──のありかたや、その生起のメカニズム、そうした感情が政治的妥当性を持っているかのような錯覚の原因を探った。続く第二部は、第一部で見たような「他者」との間に線を引くような感情の基盤となっているイデオロギー、包括すべき「我々」と排斥すべき「他者」との区別を根拠づけるような価値観の正体を明らかにする。その価値観は「均一」「自然」「純粋」というものへの志向性として整理される。

個人的で不可侵なものだとされる負の情動から、それを基礎づけ増長させる価値観へと論を進めたのち、三部で示される憎しみの成立要件を向かさせるための方策は、不純なものを称揚することだった。

 

なにより必要なのは、不純で多彩なものを支持することである。なぜなら、まさにそれこそが、憎む者、純粋で一義的なものを偏愛するファナティストをもっとも戸惑わせるからだ。必要なのは、自由思想に基づく疑念と皮肉の文化だ。それこそが、ファナティストや人種差別的教条主義者が最も嫌うものだからだ。不純なものへの賛歌は、単なる机上の空論以上のものでなければならない。多彩なヨーロッパ社会を主張するのみならず、多彩なものを包括する共存社会を実現するための政治的、経済的、文化的投資が現実に行われねばならない。

だが、複数性に価値があると見なされるべきなのはなぜだろうか。それでは、ひとつの教義を別の教義で置き換えるだけではないか、という疑問があるかもしれない。宗教や文化が多彩になれば自身の信条や行為が圧迫されると恐れる者にとって、複数性はどんな意味を持つのだろうか。

ハンナ・アーレントの『活動的生』には次のような言葉がある。「我々が複数性のなかに存在する限り──すなわち、我々がこの世界で生き、動き、活動する限り──意味があるのは、我々が互いに(そして我々自身とも)話す内容、そして、話すことにおいて意味を生むことからのみだ」。まず、ハンナ・アーレントにとって、複数性とは避けて通ることのできない現実だったことに注目したい。たったひとりで孤立して生きる人間などいない。我々はこの世界に大人数で、すなわち複数で生きている。そして、現代社会における複数性とは、既存の規範の数だけを増やし、互いに似たり寄ったりの多くの規範を作り出すことではない。「人間の条件」および人間の行為は、アーレントにとって以下のような複数性を持つものであった。「皆が同じ人間ではあっても、奇妙なことに、誰ひとりとして、過去、現在、未来の別の誰かと同じではない」。この描写は、現在流布している自己アイデンティティと他者との差異という思考に対するエレガントな反論となっている。ここでより重要視されているのは、誰もが人間という普遍的「我々」に属すと同時に、かけがえのない個人として独自性を持っていることである。ここで語られる複数性とは、硬直した「我々」、すなわち否応なく均一化されていく集団のことではない。ハンナ・アーレントの思想における複数性とは、それぞれが独自である個々の多様性から成るものである。誰もが誰に似ているが、誰も誰かと同じではない──それこそが複数性の「奇妙」で魅力的な条件であり、可能性なのだ。個々の人間からその独自性を奪うことになる規範の押し付けはなんであれ、こういった複数性の概念に反するものだ。

カロリン・エムケ『憎しみに抗って』浅井量子訳(みすず書房) p.166-167

 

これはとてもわかるなあ、というか、無理やり自分の生活に引きつけていくと、生活においてダサさを許容していくことは、「他者」に対するおおらかさを育む。僕は幼少期から「イケてるグループ」が苦手だった。グループ内で定められた美意識にそぐわないダサさを許容しない狭量さを感じ取っていたからだと思う。多少のアホ毛や鼻毛は見逃して欲しかった。

僕の奥さんは自分の好む音楽のセンスが悪いとしばしば自己卑下するけども、いまは平気な顔で自分の好きな音楽をスピーカーで流す。僕はそれが嬉しい。ダサいというか、僕の好みではないな、とはたまに思う。それでも、奥さんが奥さんの好きなものを、僕の好みなんか関係なく、のびのびと楽しめているのが嬉しい。それに、だからこそ僕も、食器を洗うあいだガルパンのキャラソングとかを堂々とかけることができる。

純粋で一義的な美意識を諦めること。ガルパンもエムケもユニクロも5lack もFF8もラブひなプルーストもキティさんもなんでも雑多に楽しむこと。奥さんを性的な目で見ること、理知的な態度に敬意を払うこと、片付けができないズボラさに呆れること、チャーミングなふるまいを慈しむこと、他人に対するガサツさをこっそり見下して溜飲を下げること、感情的にならずに公正であろうとするやさしさにはっとすること、それら全部が僕が奥さんが好きだということだ。純粋な「好き」なんてない。

完璧であることよりも、なにかしら混じったり、損なったりしちゃう不純さをそのまま愛おしむことが、生活をごきげんにやっていたり、「他者」をちゃんと人間扱いするためには肝心なのかもしれない。いい加減さ。無精で伸びたままの髭面で、伸び切った前髪を同居人から借りパクした黄色いリボンのついたかわいい髪留めでまとめながら、僕は今これを書いている。

 

さらにエムケは、憎しみを向けられてしまった人たちは、憎しみに抗うためだけでなく、その人らしく幸せになることが必要だと書く。不当に憎まれていることと関係なく、自分なりの幸せを享受することを肯定することが大事だと書かれる。憎しみに対して異を唱えるために、非現実的なほど清廉潔白であったり、わかりやすく不幸である必要なんてない、ということだと僕は読んだ。どんなに厳しい状況や、悲しみの中でも、ふと笑顔がほころぶ瞬間というのはある。それが生活というものだし、憎しみに抗う者は笑ったり、ふざけたり、楽しんだりしてはいけないなんていうのはナンセンスだ。虐げられていることに抗議する者は、その抵抗の只中にあっても、笑うし、ふざけるし、楽しむ。そんなの当たり前のことだ。でもわざわざ言わないといけないような気分になることじたいが、僕は我慢ならない。

日々笑い、ふざけ、楽しむ僕もまた、人間が不当に扱われていることに対して声を上げる正当性を持つということだ。当事者でなければ声すら上げられない、というのは、なんかちがうと思う。いまの制度や風土が、ある個人を不幸な状況に追い込んでいるという事実に、恥じ入り、憤り、是正するよう行動することは、お節介でも、越権行為でもなんでもない。当たり前のことだ。人間が人間扱いされていないことに異議を唱えることを、人間扱いされていない当事者にだけ求めるのは、間違っている。

GEZANの「DNA」を聴こう。僕らは幸せになってもいい。