2020.07.09(1-p.92)

起きてすぐ無理で、もう起き上がれそうにない、と呆然としていた。奥さんが、あきらめる? と訊いてくれたので、諦めはしない、と言ってしまってもう諦められなかった。奥さんも朝は弱いし今朝のような天気だとかなりしんどいはずなのだけど、僕に先んじて起き上がって水を一杯持ってきてくれる。お弁当の支度──冷蔵庫に準備してあるやつを出してきて、保冷剤付きのふたを閉めて、ハンカチで包む──もやってくれる。感謝して水を飲む。それで動けるようになって支度をすると奥さんはもう横になっていてほほえましかった。人に親切にするためには、二度寝できるというような余裕が不可欠だ。それで家を出る。家を出るときには結局また奥さんは起き上がって玄関まで見送ってくれる。ありがたさのあまり朝から感極まる。感極まることで自分の精神の余裕のなさを痛感する。

 

今朝の地震で電車が遅れていたが混雑はそこまでじゃなかった。乗換までに『資本論』。読み始めは最初の70頁は序文ラッシュなのだから、本文に取りかかるとなるとおそらく一日10頁くらい。ちょうどそこで節が切れるから読みやすそうだった。プルーストはいつまでたっても段落どころか一文も終わらないのでかえってどこで中断しても同じようなものだったが、マルクスは思考の節目までは一息に読まないと負いきれなさそうなので、10頁とかで一ストロークなのはとても助かる。この調子で続いてくれ。

 

なんの話をしているのかをあらかじめ知っていて読むと、わかった感が全然違うので楽しい。資本主義社会とは、富のほとんどが商品になっている社会のことだ。だからまずは商品について検討していく。商品の価値は二面性をもつ。どのように用いてどんな役に立つのかという使用価値と、別の商品と交換するときに問題となる尺度としての価値だ。後者は具体的な使用価値を捨象する。一着の上着の「着れる」という使用価値と、一個のドーナツの「食べれる」という使用価値は、お互いに異質であるためにそのまま比較したりできない。お互いに質の異なった有用さをもつものを交換し合うためには、使用価値を問題としないべつの価値の基準が必要になる。

 

きょうは出社するだけで大成功だから、朝ご飯は奮発していいことにした。スタバでトールのラテとドーナツを買って1000円くらいじゃぶじゃぶ使ってやる、と思ったのだけど、僕はスタバの価格設定を大袈裟に考えすぎていたようで600円ちょっとで済んだ。スタバ、いいじゃん、と僕は偏見を改めた。たったこれだけの値段で、このドーナツ美味しいですよね、いってらっしゃい、などとちょっとしたやり取りがあるのも、ふだんは白けてしまうが、弱っているいま、失われかけた他者への愛想のよさを補給することができてだいぶ助けられた。人との、ほとんどなんの感情も創意も乗せないで済む簡便で気持ちのいいやり取りは、ちょっとした救いだ。この値段でこの贅沢をした感じを得られるのだったら、もっと使ってもいいかもしれない。

 

お互いに異質な使用価値を持つ商品の交換を可能にする基準として、商品の生産のために支出された労働力があげられる。でもこれは、「今朝は体調がすこぶる悪く起きて出社するだけで僕の労働力を1000円分は支出したから、この頑張りは朝ご飯にスタバを使うに値する」などと個々人の具合で決められるものではない。そうではなく、労働力の価値は、平均的な人がある生産のために支出する労働力の平均値によって決まっているのだ。

 

大学生のころマルクスを聞きかじった僕は「価値の源泉が労働」というのだけで、労働なんか嫌いだというのが「サヨク」だと思い込んでいたのもあってひどくがっかりした。マルクスを頑張って読んでも、働かなくてもいい理由が見つからないんじゃ意味がないじゃないか、と。しかしマルクスはいまのところ価値の源泉である労働最高! とは言っていない。ただ、異質な使用価値を持つ商品を交換するのには共通の尺度が必要だよね、そんでどの商品にも共通してるのって、そこに労働力が投入されてるってことだから、これが尺度としていいんじゃない? と言っているだけだった。ここで重要なのは、ある商品に投入した労働力の価値は、一意に決まっているものではなく、あらゆる外部要因──技術革新や環境変動、文化など──によって変動するということだ。上着の「着れる」という使用価値は、なにがあっても不変だが、ほかの商品と交換するとき、その現場が裸族の国である場合はこの価値はゼロに近いし、供給過剰で服があり余っている場合もまた限りなく低くなるだろう。上着の使用価値──具体的にどう役に立つのか──は、上着自体に備わっているけれども、上着の価値──ほかの商品との交換にどれだけ有用か──は、上着そのものにではなく、上着とそれが流通しようとする社会との関係のなかにしか存在しない。きょうまで読んだところのマルクスはそのようなことを言っているっぽい。

 

資本主義社会が富のほとんどが商品としてある社会なのだとすると、そこでは価値が使用価値に対して優位である社会ということで、ある商品がどれだけ役に立つかは実は問題ではない。ある商品が交換という社会的行為の際どれだけの力を持つかが重要になる。先走って自分なりに論を進めると、だからこそ資本主義社会ではお金が圧倒的な覇権をとるのだ。お金というのは具体的な有用性はまったくないが、ほとんど何とでも交換できる。使用価値を問題としないで価値だけがある。商品としては最強だ。そんなものはお金だけで、だから皆とりあえずお金を欲しがるのは当然のことだとも思える。