2020.09.11(1-p.292)

奥さんと昨晩だか話していたのは、僕は読んだ本の話を奥さんにするのが好きだがマルクスはいまいち盛り上がらない、それは経済の話は難しいというのもあるが、マルクスについては、ほんまそれ、という以上の感想が僕は伝えられていない、ほんまそれ、だけの読書の話は、あんまり面白くない。そういうことかもしれなかった。解像度が低い物事に関しては、読書は、生煮えの知識というか、知識以前の印象だけで、ほんまそれ、と地震の浅はかな認知を補強するだけにしかならなかったりする。僕は読書は、何読まされてるんだろう、というわけわからないままに楽しい、というのが好きだった。それがわかった気になったり、最後までわけわからなかったりするときこそ興奮する。そういう読書が、政治や経済の話だと成り立ちにくい。それは、それらが、ほんまそれ、と自身の環世界を補強していくための道具としての側面をどうしたって持ってしまっているからだった。たとえば僕をマルクスに導いた『大洪水の前に』の斎藤幸平の新著に推薦文を寄せている面子を見ても、作品ごとで切り取るならば好きなものがいくらでもあるにもかかわらず、屈託なく信用できるかというといろいろ問題がありすぎる人たちが並んでいて、それは例えばユーミンの話とかはわりとどうでもいいながらも象徴的で、資本制システムによって駆動されている社会というようなでかい主語で語っている当人がわりとフィルターバブルの半径の狭さに無自覚というか、自分の考えがまったく顧みられないところも含めての社会であることに対してナイーヴにすぎるような危うさを感じてしまう。この友達がいなさそう、偏った友達しかいなさそう、みたいな危うさは、この国における「左」の特徴なのか、マルクスなんかも結構その感じがあるし、万国共通のものなのか、よくわからない。とにかくマルクスはもっとフラットに読めそうなものなのだけど。どうしたって右とか左とか言いたくなっちゃうのがけっこう鬱陶しい。あと経済の本って顔出ししないとやってけないのか。あの著者の近影がどーんと表にある感じの本、ださすぎて受け付けないのだけど、そこで思い出すのはテイラー・スウィフトの新譜について語ってたポッドキャストのどれかで、歌い手の顔がドーンみたいなジャケットは要は演歌なんだよ、というようなことを言っていたことで、いなたさ、と思う。自閉しているがかなりの程度のキャパシティのある世間の中で醸成されるアティチュード。

 

帰宅すると珍しく奥さんがまだ労働をしているので、終わるまでNetflix で『ミス・アメリカーナ』を観ていた。テイラーのことが好きになった。奥さんはきょうはさんざんだったらしく、もうずっとつらい肩をどうにかしようと鍼灸にでかけようと支度をしていると急ぎの会議が入り、終え、家を出た直後にまた会議が入り、終え、歩き出して五分ほどでゲリラ豪雨に降られ、濡れそぼり、雨宿りしているうちに午前診療が終わっていた。午後の仕事はついさっきデータがクラッシュして無に帰した。それでこんな時間まで労働している。あなたは労働を憎んでいるから労働をしているわたしに冷たい。あまりにもさんざんすぎて、笑えそうなものだったが、笑えなかった。