2020.08.21(1-p.220)

引き続きハマータウン。投機的にいまを消費する。それが学校で訓練され、会社で僕がやっていることだった。〈野郎ども〉は学校をすっ飛ばしてそれを察知する。結局彼らも賃労働という、いま・ここと引き換えに賃金を得る行為に従事していくわけだが、彼らの職場は、やはりいま・ここを何より優先する価値観が支配している。管理者の計画を無視して、それよりもずっと有効な仕事の段取りを自律的に決めていく。〈野郎ども〉の実践は、まさしく現場の知だ。椅子に座ってうんうん言っているだけのマネージャーには思いつかないような創意工夫と助け合いとで、現場は回っている。そこにあるのは抽象的に未来を思い描くような思考ではない。いま・ここを敏感に察知し、その都度の判断でうまくやっていく野生の思考のようなものだ。
あいつらは現場のことなんかわかっちゃいない。実際に具体的なモノを仕上げるのはこの俺たちだ。職人たちのこの矜持は、学校の授業をエスケープし、社交や労働に励む〈野郎ども〉の価値観がそのまま息づいている。いま、目の前にある者だけがリアルで、それ以外のことに回す暇はない。
ある意味で彼らは徹底的に現実主義者だ。即物的な現実主義者にとって、現状を追認し、そのただなかでうまくやっていくことこそが有能さの証になるのも、そうなるよね、という話だ。
 
僕のような「さしずめインテリ」たちは、いま・ここにはない現実の可能性を夢想し、別の現実を作り出そうとする。現状以外に現実はない〈野郎ども〉からみたら、さぞ現実離れした愚図に見えることだろう。夢見がちな愚図どもが、やたらに現状を批判してきやがる。俺らが瞬間瞬間に全身全霊を研ぎ澄まし渡り合ってきた現実を否定して、あたらしい現実を作るとぬかす。そりゃ立派なことで。でもな、じゃあ今日納品分のモノは誰が作るんだ?
抽象的なアイデアがいくらあろうとも、それを具体化することができなければそれこそ夢想に過ぎない。具体化しようとなるとどこかで具体的なモノ──油にまみれた重厚な機械、それを操る太い腕っぷし……──が必要になる。資本制社会の「成功者」たちは、具体的な部分を捨象して抽象的なマネーやシステムなんかに耽溺して、面倒でしんどい具体的な部分を海や想像の外にある下請けにアウトソーシングする。しかしどれだけ遠くにおいやっても、具体的なモノはないことにはできない。抽象化の極みのようなインターネットだって、膨大な熱を放出する巨大なサーバーがあちこちになければ成り立たない。ノルウェーの大工も似たようなことを言っていたな。
 
行き過ぎた資本制を批判しようとするとき、こうした具体的なモノづくりを自分たちの手に取り戻そうという試みは、けっこうイケてるものとしてあるように思っている。ベランダでトマトを育てるとか、できることからでいい。それは、〈野郎ども〉の価値観を、いい感じにインストールすることなのかもしれない。〈野郎ども〉とは、僕ふうに言うならばヤンキーだ。田舎町でヤンキーにさんざん嫌な気持ちにさせられてきた僕からすると、ヤンキー的価値観とは一生無縁でいたかったが、会社員になって、いろんな本を読んだり、自分でものを書いたり喋ったりしながら資本制のダメな部分について点検していくうちに、メタ的な視点を持たないヤンキー的感性の必要もわかるようになってきた。徹底的に具体的であること──これはここ最近寅さんを観ながら考えていることでもある。
ねじれているのは、ヤンキー的感性はなによりも資本主義リアリズムや家父長制と相性がいいということだ。ヤンキー的感性の持つ、資本主義的嗜好、レイシズム、家父長制などのダメダメ最悪成分をぜんぶ捨象してようやく、彼らの具体的思考、いま・ここへの傾倒というエッセンスを示唆的なモノとして考えられうる。〈野郎ども〉はまったく美化できるものではない。それでも、彼らが誰よりも敏感に資本制社会を洞察し、内面化しているからこそ、彼らの個別具体的な実践の一つ一つによって資本制システムに無数にひかれる逃走線を、システムを内側から無効化するためのてがかりを、「さしずめインテリ」の僕なんかは予感してしまう。