2020.08.20(1-p.220)

午後イチで楽しみな打ち合わせが一件。
その他の時間はずっとポチポチポチポチFGO。これはやばい。「ハリー・ポッターと合理主義の精神」の時もそうだったが──これも数日のあいだ熱に浮かされたように読み続け、ぱったりと止めてしまった──このくらいで終わりそうだな、という目途もないままにテクストを読み続けるというのは僕と相性が悪いというか良すぎる。無限に読んでいられる。バトルが多すぎるが、イベントのほうはちょうどよい塩梅に調整されていて、奥さんによると最近はそうなのだという。いまは二部が進行中らしく、僕がいま遊んでいる一部は八章まである。奥さんと観たアニメは八章が原作で、これがやたら長大だということまではわかっている。いまはほぼ一日に一章のペースで進めていて、しかしサマーキャンプとの並走はちょっとしんどくなってきた。きょうからはロンドン。たぶん半分くらいまで。みんな格好いい。目的のためだったら個を犠牲に出来るみたいな美学、僕はまったくノれないのだけど、英霊はもう死人だから個人でもない。
これじゃいかんと、『アイデア大全』をつまみつつ、『ハマータウンの野郎ども』を始める。これがべらぼうに面白い。ずいずい読む。やっぱり本はいい。学校の反抗者である彼らが、なぜ社会に対して誰よりも従順であるような職業選択に決着するのか。なによりも『飯場へ』を思い出しつつ読んでいる。〈野郎ども〉が依拠する有能感、そのマチズモ。それはいま・ここを重視し、いま・ここを投機的に消費する態度への反抗である。たとえば彼らが重要な意味を持たせる直接的な暴力行為は、人をいま・ここに釘付けにする最たるものである。彼らは将来のための勉強を否定し、きょう一日の享楽をこそ追求する。将来の稼ぎなんて〈野郎ども〉には関係ない。肝心なのは、きょう一日を楽しむための小銭だ。だからこそ彼らは、さっさと大人の世界=賃労働の世界に参入し、そのままそこに回収されていく。大局的に見たら、彼らほど資本制の社会システムに従順な者はない。しかし大局的にものを見る、などという抽象的な思考は、彼らにとってはとことんバカらしい。具体的に、いま・ここにあるもの。それだけが重要だった。だから彼らは目の前の学校──いますぐ使えるものなどなにもなさそうな場所──に反抗し、もっと具体的に日銭を稼がせてくれる工場に従う。彼らは愚かだろうか。優秀な賃労働者の再生産だけを露骨に目的とするような近年のこの国の教育の体たらくを見ていると、より一層思うが、彼らほど洞察力に優れた生徒はいない。どうせ労働力として社会に呑み込まれていくのなら、早いほうがいい、いま・ここを空虚に消費する無意味なルールにお行儀よく従っていても何も得られやしない。そんなことより今すぐ稼いで、ここにいる仲間と楽しもう。それが〈野郎ども〉の流儀だった。その日暮らしの流儀。