2020.03.18

俺はまったく酒井さんの書いてることがわかってないかもしれない、奥さんにそう弱音を吐くほどに、『自由論』はただ文字を目でなぞるように進んでいく。とはいえフーコー読解に比重が置かれる第Ⅰ部を抜けて第Ⅱ部に至ってついに、文字が言葉として入ってくるようになった。というか、セキュリティという語に引っ張られるように第Ⅰ部の議論を思い出していくから、ここまでのただ文字を目でなぞっていくような行為にもやはり意味はあったのだ、と思う。こういう難しくて分厚い本は、我慢してとにかく文字にしがみついていると、どこかのタイミングで急に読み方が分かった気になれる、それが楽しいが、すべての本が分かった気になれるかというとそうでもなく、大半は最後までただ文字の上を目が滑る。


疫病への不安よりも、それに対応する他者への不信感にぐったりする日々だった。この他者に実体がないのがなにより厄介だった。銭湯でひと風呂浴びるとてきめんに元気になったので、必要なのは抽象的な他者への信頼の獲得ではなく、具体的な他人と共に熱いお湯に浸かることだった。


排除の論理は衛生観念としてあらわれる。


寒暖差が激しい。今日は暖かい。目がショボつき、鼻がかゆい。風は冷たいので、上着を持ってこなかったことを少し後悔する。目がショボつき、鼻がかゆい。目がショボつき、鼻がかゆい。目がショボつき、鼻がかゆい!


無性にコーヒーが飲みたいが、ワークデイの買い食いは一回きりという制限を設けないと際限がない。なので夕方までは我慢することにしたが、さっさと飲んでしまったほうが今日一日をいい動きで過ごせたのかもしれない。いい動き。いい働きとは、どんな行為をいうのだろうか。


コーヒーを飲んだらてきめんに元気になった。はやく飲めばよかった。