2020.02.24

引き続き「帚木」、毬矢まりえ+森山恵姉妹訳『源氏物語 A・ウェイリー版第1巻』。持ち運ぶには大きすぎるので、基本は家で読むことになりそう。リュックに常備できないとなると、家を空けることも多いので、毎日読むというふうにはならないはずで、自宅で寛げるときに読むものと決めておくのもまたいい感じのルーティンになりそうだった。フった女性の弟をベッドに誘い、これはこれで、と思うオチにしょうもねえ! と笑う。オチのところだけ奥さんにも読んでもらって『ギケイキ』の「菊門は掘られた」を思い出すよね、と奥さんと話す。夫婦そろって『ギケイキ』はその場面しか読んでいない。そのまま「空蝉」まで。ベッドに誘った弟の耳許で、あんなに人に嫌われたのは初めて、お前のお姉さんはなんて人なんだ、と甘ったれる源氏の大仰なセンチメンタルに僕はやはり『失われた時を求めて』でママがキスをしに二階に上がってきてくれなかった! と大騒ぎする「私」を連想する。

長大さによって世界で名作とありがたがられている作品を続けて読んでみて、とにかくある視点として据えられた主人公がなよなよクヨクヨしている。もっとしっかりしなよ、と思うが、狂言回しがさっぱり気持ちのよい性格でいたら、もっとサクサク話が進んでしまって読むところがなくなってしまうのだろうなとも思う。それに、しっかりしたくともしっかりできない状況の人が、別の仕方でしっかりするための行為としても、なよなよクヨクヨを徹底的に書くというのはある。

原注に、初登場の人物をさもお馴染みの人物かのようにさらっと文中に紛れ込ませるこの手法はプルースト的ですよね、というようなものがあり、ウェイリー自身がしっかりプルーストを意識している。


外では今日から堀之内出版の『戦う姫、働く少女』。『hibi/ どこにいても本屋』を読み終えてしまったので、『校正者の日記 二〇一九年』も持ち歩く、持ち歩くには繊細な本で、ひやひやする。他人の日記は外で読むのが似合う。

労働という苦役を、自己実現というような言葉で正当化してよいものだろうか、という違和感を僕はずっと持っていて、なので『戦う姫、働く少女』は問題意識からしてしっくりくる本で、そういう本は久しぶりな気がする。堀之内出版の本はしっくりくるものが多くてそれでしっくりきたいときに手に取る。

自分の考えていることが、自分だけが考えているわけではないという安心というかそりゃそうだよねという気持ちを味わうための読書は、たまにでいい。基本的に読書は自分の考えていることの外を予感して不安になるためにこそするものだと僕は思っているというか、そういう読書を僕は好む。情報は簡単にフィルターバブルを構成するが、本は情報とは限らない。本は情報である前にまず他者だ。他者との出会いに安全や同質性を求めてもしょうがない。自分の立場が揺さぶられてこそ、そして自分なりにスタンスを調整することを迫られてこそ、他者との交渉だった。それが僕は読書だった。

生身の人間との対話は僕には速すぎるようで、結局インターネット上の情報の渉猟とほとんど変わらないような気すらする。僕には紙の上の文字という遅さが、他者との交通を試みるのにちょうどいい速度のようだった。ちょうどいい速度で、他者と遭遇したい。ちょうどいい塩梅で、自分を作り作り替えられていきたい。それが本を読むことのすべてだとは言わないけれど、僕が好んで本を読む理由のひとつではある。