2020.03.19

NENOi さんに『プルーストを読む生活1』の提案。マイルストーンはやはり売れるとのことで、早稲田の本屋さんなんだな、と思う。暑いくらいの陽気だったので、自家製ベリーソーダをいただく。内容を吟味いただいているなかでヒロアカの話題になり、ついつい熱が入る。

古書ソオダ水を覘き、じつに六年くらいぶりにつけめん高木やで辛子みそを注文。記憶していたよりも辛くないが辛い。


上野で午後休を取った奥さんと合流。半端な咲き具合の桜を見ながら歩き、こうも集合することができないでいると、ふだんはどうでもいい花見をむしろしたくなってくるね、陣取りがダメなら、缶ビール片手に集団でそぞろ歩きたいね、それはもう宴会ではなく運動だね、などとおしゃべり。いま僕は自治というものを考えている。秩序の保守は必ずしも悪なのではないく、大きな規模になったときその危険性もまた最大化する。生活感覚における秩序への必要を、自治体や国といった大きな単位にまで摘要してはいけないのかもしれない。僕たちは小さな自治を志向するのがいいんじゃないか。自らで自らのルールを設定すること。オンリーイベの自治

酒井隆史の『自由論』の話から、腐女子を権力論から論じると楽しくなる可能性の話になった。ドゥルーズが哲学とは概念を発明すること、世界の新しい地平を切り開くための言葉を発明することだというようなことを言ったとか言わないとかだけど、腐女子の「尊い」や「推し」というのはまさに概念の発明そのものだというような話をした。自らを壁とみなし推しが幸せになるさまをただ見守る態度、それこそが権力からの逸脱の契機たりうるのではないか。

推しを推したいというやむにやまれぬ衝動だけをよすがに集合すること。お互いの地雷をうまく見ずに済ませつつ──背後に緊張関係を常に含みつつ──表面上は治安よくやっていくための創意工夫。複数の人間が雑居する家を考えるとき、オンリーイベの自治運営が参考になるかもしれない。誰も彼もという際限のない包摂はここでは問題にならない。ある程度の閉鎖性を前提としたうえで、それでも充分に多様な価値観をいかにそれぞれの気持ちよさを損なうことなしに放任するか。


なんだかたくさん喋って、僕は難しい本を読むとその本そのものの読解からは遠く離れたところで何かが活性化するらしく、奥さんとこうしてあることないこと話す。学生時代の、そもそも自分たちでも何について論じているのかわかっているかも怪しいままに喧々諤々の身振りをして遊んでいたことを思い出すというか、いまでもそうやって遊んでいる。


日付が変わるころ、ようやく『自由論』を読み終える。ぜんぜん読めた気がしないので、レジュメを作って複数人で読み直したい。