2020.08.27(1-p.237)

昨晩寝る前に僕もアビーちゃんを引いた! 動揺しすぎて、えっと声が出て、奥さんに駆け寄った。それは先ほど奥さんが示したものとほとんど同じ反応だった。驚いた。そののち、喜びがやってきた。すごい、嬉しい。ただのデータにふつうに一喜一憂するようになっていて、しかしただのデータに一喜一憂するというのは本を読むのだって同じことではなかったか。
起床即石を割って──この用語を奥さんから耳学問で取得し使ってみたくてたまらなかった──長かったキャメロットを昼過ぎに終わらせ、いま一度アニメのエピソード0を視聴。これは確かにグッとくる。隣では奥さんが静かに泣いていた。バビロニアはすでに馴染みのあるエピソードだから、ここまでのようにガツガツと進めることをしなくて済みそうでほっとする。きょうは休日だったのだけど、キャメロットの息抜きにサマーキャンプを完走し、つまりはFGO の合間にFGO ということだった。大げさでなく一〇時間くらいやっていたのではないか。流石にどうかと思うが、本を読んでいるときだってそういう時期はあるし、なにかに一日の大半をつぎ込むというのはそれが何であれ異常だった。ソシャゲにせよ本にせよ労働にせよ、異常な集中というのは異常だ。そしてその異常な行為の主体者はこちらなわけで、ソシャゲがいくら巧みに設計されていようともその設計が異常なわけではないというか、異常であることが傍からみるとすぐにわかる時点で巧みさの点では読書や労働に劣りさえする。何が言いたいかというとすっかりハマった。
すこしだけハマータウン。ほんのすこしだけでも非常にいい文章が連発され、楽しくなる。
〈野郎ども〉の手仕事へのこだわり。それは手だけを労働力として支出するのであり、全人格的な包摂は回避するべきという彼らの労働観によって裏打ちされている。

このように「労働力」を対象化する意識は、自我の内面が現実の労働から遊離するという経験的事実にもとづいている。つまり、ここで意識されている「労働力」とは、社会の需要にこころの底から応じようとする労働ではなくて、社会の要請から自我を守る一種の防壁にほかならないのである。労働過程から全幅の満足を引き出そうとは、ここでは最初から考えられていない。満足を得る前提としての労働にたいする自我の全的投入が、そもそも拒絶されるのである。自我の内奥は、あたかもおのれ自身の労働から隔離されて、より切実な意味を労働の周辺に求める方向に働く。労働と労働への期待感とは、ともに枠にはめられ、制限され、あたうかぎり極小化される。しかし逆に、文化的・象徴的な次元で労働の環境に付与できるかぎりの意味づけは、しっかりと把握され、展開され、極大化が試みられる。労働が課業として要求してくるものをあらかじめ限定しておくことによって、腐臭ぷんぷんたる職務専念義務やピューリタン倫理の呪縛からいくらかでも自由になり、こうしてはじめて職場生活を謳歌するための自律的で現世的な展望の余地が生まれてくるのだ。職場の集団社会のうちに、正規の職制組織とは別に、インフォーマルな自己意識と仲間相互の関係の網の目が形成され、そこに労働階級の文化が、なかんずく男っぽさや剛胆さを尊ぶ気風が強く働くようになる。まさにこのような集団社会こそが、労働主体の自意識がもつ真に能動的で野心的な要素の活躍する場なのである。それは反学校の文化が生成する過程についても同様であった。つまり、両者はともに、授業 = 労働という課業の細目にとらわれることを拒むことによって成立する文化なのである。反学校の文化がたてまえの文化とはきっぱり切れた価値観と行動様式を指向していることは、これまでに見てきたとおりである。 卒業後の将来を決めようとする少年たちにとってより重大な関心事は、労働の中身や技術的な特徴ではなく、感覚的にピンとくるような職場の人間くさいことがらであり、そういうことがらについては、学校という独特の環境下ではあれ、彼らは反学校の文化を通じて判断力を養っている。結局のところ、どのような職に就くにせよ、そこに気晴らしができるほどの労働者的な文化があるかどうか、それがやってゆけるかどうかの境目なのである。

ポール・ウィリス『ハマータウンの野郎ども』熊沢誠山田潤訳(筑摩書房) p.210-211

〈野郎ども〉の気分の基底にある、労働なんてつまらないものという醒めた現状認識は、ある面では労働による自己実現をナイーヴに信じる学校に順応的な生徒──〈野郎ども〉の言うところの〈耳穴っ子〉──よりも、賃労働への移行をスムースにする。労働をある程度自身から切り離す〈野郎ども〉のスタンスは、あまりにも盲目的に〈やつらとおれたち〉という権力構造を自明視しているからだ。〈やつら〉にとって〈おれたち〉ほど扱いやすい者はいない。〈やつら〉にとってやっかいなのは〈やつらとおれたち〉という構造そのものを認めない頭でっかちな者たちのほうだ。

労働階級の反学校的な少年たちがある特定の工場労働に引きよせられて、そこに定着するようになるには、いまひとつ、少々屈折した要因が介在する。それは、新しく彼らの雇用主や監督者となる者たちとの関係のつけかたにかかわっている。〈野郎ども〉が学校で身につけてきた文化については、経営の側にもそれなりの目算があるのだ。つまり、少年たちが学校制度の裏側で育んできたやつらとおれたちという対立的な考えかたは、逆にみれば、権威 - 服従の関係それ自体は受け入れることを前提している。〈おれたち〉がいる一方で〈やつら)がいるという関係の枠組みそのものは黙認されているのである。この関係が不快であればこそ、そこをなんとかおもしろおかしいものにし、すきあらば乗じようとするのだが、その反面で少年たちの文化は、権力が位階秩序の上方に偏在する事実をとにかくも受容し、それと折り合いをつける方向に向かう。反抗がすぐれて文化的なレベルに根をおろすそのときに、権力関係そのものに挑戦する政治的なレベルの野望は見失なわれてしまうのである。〈やつらとおれたち〉という哲学は、一方で、ごく身近な関心事や人間くさいことがらや仲間関係の大切な意味をひろい上げてうち固めるが、その一方では、それらのことがらを深層で制約している実在の権力関係に介入することは二の次になる。少なくともあとのほうの局面は明確に意識化されないのである。 順応派の生徒たちはといえば、彼らは「熟練を要する」職種に迎えられるのが常である。けれども、これといって独自な文化で防備するわけでもなく、気晴らしも知らず、状況解読の習慣化された能力にも乏しいまま平々凡々たる職場の日常に入るとき、経営側の目に危なかしく映るのはむしろ学校で順応的であった少年である。職場のならわしに異和をもたらしかねないのは彼らであるようにみえる。こういう少年は、対等平等な個人という教義を、まだいわば型通りに信じこんでいるところがある。対等平等の条件下で能力に応じて報いられるという個人主義は、学校がまずなんらの限定もつけずに伝授したものだが、それを職場にまで持ちこむのだ。こうして、なるほど表だった反抗はみせないし、慣行を重んじる職制に不遜な態度で接することもないかわりに、〈野郎ども〉の反抗的な態度の裏面にあったような、不変の権力関係にたいする暗黙の了解もまた、彼らには存在しない。〈やつらとおれたち〉のあいだの不動の境界線を彼らは認めない。こういう若い労働者は、労働に真の満足を求めようとするし、現職からの上向脱出の可能性に賭けようとする。権力の配分にたとえ不平等があるとしても、それは最終的に個人の能力の差のみに帰因するのでなければならないと彼らは考える。しかし、このような期待にもかかわらず、職場の日常はうんざりすることばかり多い。かといって同僚との気晴らしに救いを求めることもしないので、順応派の少年は取りつくしまのない「あっかいにくい男」になってしまう。実際に、熟練を要しない手労働の職場では、そういうことを考慮して、〈耳穴っ子〉よりも〈野郎ども〉を好んで採用する傾向がある。〈野郎ども〉の「粗暴さ」の奥には、立場をわきまえた現実主義があるからである。彼らは、大勢の仲間と歩調を合わせて大過なく一日をやりすごす。つまり、その日の生産をやりとげてくれる。与えられた職務の内容に「さしでがましい口」をはさむこともないし、職業生活の将来の展望についてくよくよすることもない。なるほど〈野郎ども〉にも「彼らの言い分」があり、「言い分を通す」気がまえもあるけれども、おれたち〉を〈やつら〉の階層に押し上げねじ込もうとはしない。そこのところが経営者の側に好ましく迎えられるのだ。〈野郎ども〉の側から見ても、職場は予想以上に居心地がいいし、学校が私的な立居ふるまいのほんのささいなことにでも干渉したのにくらベれば、職場の上司や監督者は個人にかかわることがらはおおらかに見すごしてくれる。そうであればこそ就職が、学校からの脱出の意味を帯び、職場への移行もいっそうなめらかになるのである。 さて、生産現場の雰囲気には、男性として相互に一定の敬意を払う原則とともに、それぞれの生産努力がある水準に達することを強要する力が働いている。この二つの点はともに学校には顕在していなかったものだ。だからこれらのことが、反学校の文化が本来の職場文化へと変換するときの指標となる。 学校も生産現場もよく似た構造をひそませているが、生産活動のともかくも順調な遂行を至上目的とする職場は、学校があからさまにはしなかった要素を額面通りに請求する点で、明らかに学校とはちがうのである。

同上 p.226-228

 
学校に対して反権威的であった〈野郎ども〉が、労働の現場では順応的に生産性を追い求めがちであること、その原因を考えるヒントがちりばめられている。『飯場へ』における勤勉と怠けの考察を参照しながら、このへん真剣に取り組みたい気持ちがある。ますはバビロニアの人理修復だが。