2020.10.07(1-p.325)

あしたの読書会に向けてグレーバーを読み進める。概念の発明は偉大だが本としては微妙、みたいな評判も聞いていたのだけど、むしろ終盤に至ってどんどん面白くなる感じがあって、やはり他人の評判などほとんどあてにならないというか、褒めはそれだけの熱量を持った語りを誘発する本ならば楽しい読書になるだろうという予測につながるが、冷笑のようなものはそもそもが不感症のようなものだから、自分が読んで感じるものだけに興味がある僕のような人にとっては特になににもならないということのようだった。

わたしが政策提言にためらうもうひとつの理由は、政策という考えそのものに懐疑的であるからだ。政策という考えのうちには、エリート集団──典型例として政府官僚たち──の存在があらかじめふくまれている。なにごとか(「政策」)を決定し、それからそれをみなに押しつけるようお膳立てする、そのようなエリート集団である。こうした問題について議論する段になると、わたしたちはおよそ心のなかでいくばくか自分自身を欺いている。たとえば、「Xという問題にかんして、わたしたちはなにをなすべきだろうか?」というような言い回しがよくある。まるで社会総体としての「わたしたち」が、自分自身にかんして決定を下しているかのようだ。しかし、現実には、政策立案者たちに影響力を行使できるのは、人口のおおよそ三%から五%にすぎない。たまたまその少数のうちに属しているのでないかぎり、これは欺瞞的なゲームなのである。現実にはわたしたちは支配されているのに、支配者たちに同一化しているわけだ。テレビに出演した政治家が「恵まれない人びとにわたしたちはなにをするべきか?」と発言するのを耳にしたとして、たとえわたしたちの半数がそのカテゴリーに属していたとしても、わたしたちは支配者の目線に同化してしまうのだ。わたし自身は、政策エリートは存在しなければしないほど好ましいと考えているため、そうしたゲームはとりわけ有害におもえる。わたしは、自分のことをアナキストであると考えている。いまでは、たとえばスペインの異端審問や遊牧民の侵略は歴史的好奇心の対象だろうが、それと同じように、政府や企業などが歴史的好奇心の対象となるような未来がいつか到来することを待望するのがアナキストであることの意味である。だがそれだけではない。差し迫った問題に対して、政府や企業により多くの権力を与えてしまう解決策よりは、自分たちの問題を自分たちの手で対処できるような手段を人びとに与えるような解決策のほうを好むのが、またアナキストであることの意味である。
デヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ』酒井隆史/芳賀達彦/森田和樹訳(岩波書店) p.346


 
僕はグレーバーは香山哲ヤマザキOKコンピュータと同じ箱のなかにしまっている。じぶんも似た箱に入れたらいいなと思っている。香山哲はシュミュレーションゲーム的というか、やや為政者目線がないわけではないけれど。三人ともアナキストでもパンクスでも既定の仕方はなんだっていいのだけど、とにかく自分の足元からやっていこう、という楽観があるのが好きだった。じぶんの生活圏に対する、屈託のない信念。
今週のオムラヂを聴いて、冊子メンバーについての「芯はあるけど自信はない」という評の話を改めていいなあ、と頷いたりする。僕の日記は、前の段落もそうなのだけど、「けれど」がしばしばダブついている。この意見や価値観までもがあっちにいったりこっちにいったり、所在なげにぶれたり揺れたりするさまこそが僕にとっての大事にしたい素人感覚でもあるし、わざわざ人目に付く形で日記を続けている意味でもある。変わり続けること、定まり切れないことは、わるいことじゃないぜ。