2020.10.06(1-p.325)

これみよがしに本を読んでいる。ソシャゲはほどほどにやるようになった。というよりも、難所があまりに難所だと聞かされた結果、やる前からあきらめていて、種火と石とを集めることくらいしか今はやる気がしないので、すぐに遊ぶためのポイントが尽きてしまうのだった。それでグレーバー。僕はグレーバーはいくつかのインタビューと『官僚制のユートピア』しかまだ読んでいないがかなりファンだといっていい。この勢いで『負債論』を買ってしまいたい気でいるが、どこで買おうかな。そろそろ行きたい双子のライオン堂に置いてあるといいのだけど。
 
グレーバーは人類学者然としている時がいちばんおもしろいし、グレーバーに限らず現在の話をするときにまずは歴史をさかのぼる態度が非常に好きだ。そもそも論者への好印象。中世における奉公というのは貧しい地位にあるものだけがするものではなく、むしろ高い地位の子息たちもまたより高い爵位の人の家に奉公に出ていた。その奉公は賃労働であったが、少なからぬ敬意をもって遇される。なぜならその賃労働は、生活の糧を得るだけでなく、将来の自立に向けた準備段階とみなされているからだ。

(...)貴族の女性たちでさえヒエラルキーのトップにいないかぎり、侍女(ladies-in-waiting)として青年期を送るものとされていた──つまり、わずかばかり高い地位にある既婚の貴族女性に「仕え(wait upon)」、宮廷の私室やトイレ、食事などにお供しながら、みずからもまた結婚し貴族の世帯の淑女になるのを「待つ(wait)」のである。宮廷にはまた、同じように、王の私室にお供をする「ジェントルマン・ウェイター(gentleman waiters)」がいた。 若い貴族のばあい、「仕えること」は、財産相続を待つこととほとんど同義だった。要するに、貴族の親たちは、子が爵位と財産を継承するに値するほど十分に時間をかけて仕込まれたかを判断するのである。このことは農業に従事する奉公人のばあいにもあてはまるといえよう。しかし、一般的にいって、庶民のあいだでは、奉公人たちは報酬を与えられ、その賃金をできるだけ節約するものとされていた。だからかれらは、世帯や店、あるいは農場を経営する知識と経験と同時に、それらを獲得するための財産──女性のばあいは、一人前の婚約者に差し出す持参金に見合うほどの財産──の双方を得ていたのである。そのため、中世の人びとの結婚は遅かった──たいてい三〇歳そこらであった。そのことは、「青年期」──多少なりとも粗野で貪欲、かつ反抗的な時期である青春期──が、ときに一五年から二〇年つづくということも意味している。 奉公人たちが報酬を得ていたという事実は重要である。というのも、それは、資本主義が出現する数世紀も前から北部ヨーロッパには賃労働が存在していたこと、その賃労働が敬意をもって遇されていたこと、そしてそれに携わるのは働きはじめる最初の段階のみであると中世人が考えていたこと、などを意味しているからである。奉公と賃労働はほとんど同一のものであった。オリヴァー・クロムウェルの時代でさえ、日雇い労働者は、依然として「奉公人」ともいわれていた。ひるがえって、奉公はとりわけ若い人びとが、みずからの仕事だけではなく、貴任ある大人に対する適切なふるまい方、つまり「マナー」を学ぶ過程とみなされていた。(...)
デヴィッド・グレーバー『ブルシット・ジョブ』酒井隆史/芳賀達彦/森田和樹訳(岩波書店) p.292-293


 
僕にとってここで重要なのは、マルクスを読んでいるとみじめで苦しいものでしかないように思えてくる「賃労働」のべつのあり方が提示されていることだった。賃労働は資本主義に先立つという論は、さらっと書かれているがマルクスと並走しているとなかなかに衝撃的だ。けれどもマルクスと矛盾するわけでもない。中世における奉公は、賃労働であったが、それは青年期の規律訓練の通過儀礼としてあったものだった。徒弟はいつか自分も親方になって自分もまた徒弟をとっていくというライフプランがあったからこそ、奉公に出ていたのだ。現在では、賃労働は「滅私奉公であるべし」という規律訓練の規範意識だけが生き残り、そのくせその先に自立が存在しない。資本制社会は、賃労働を常態化・全面化するというのが問題なのだ。
要するに、老後のいい暮らし、みたいな人参を鼻先にぶらさげながら自分を殺してブルシットな仕事に励んでいるつもりでいたとしても、そもそも将来に老後のいい暮らしなんて保証されているわけでもなく、存在するかもわからない人参を追いかけて永久機関のように骨折り損を重ねていくというのが現在の賃労働者の状況なのだ。
 
寝る前、きょうの夕方ごろに一気に書いて出した三日だか四日分の日記を読んで、奥さんが不満げに言った。溜まってきてから慌てて書いた日記は短いし、わたしの小言ばっかりだし、引用も投げっぱなしだし、面白くない。あなたの日記が面白くないと、あなたの好きさが弱まるというか、あなたの欠点が目に付くようになる。多少の欠点は、日記が面白ければ、こんなに理知的で素敵な人なのだからしょうがないかと思えるけれど、本も読まないし日記も適当だと、ただのソシャゲ大好きなおっさんじゃん。
だからというわけではないけれど──いや、だからなのだけど──久しぶりに書き方のモードを切り替えてみる。