2020.03.14

きのう寝る前にふと手に取った『小さな泊まれる出版社』は、なんだかそのまま読まれていき、今朝読み終えられた。いい本だった。精神的な仕事論みたいなのは僕はあまりピンとこないのだけど、お金や段取りの話はかなり好きだ。具体的な数字こそエンパワメントになりうる。特に個人の日々の実践においては、やはり先立つものをどうやって工面するかがいちばんの関心ごとだと思う。個人事業の見積書や損益計算書を見るのがとても好き。楽しい。『IN/SECTS』の「いいお店のつくり方」を参考にした、というくだりにあれはいい特集だったよねえ! と頷いたり。この本も同じように具体的に励ましてくれる本だった。C.アレグザンダーの名前が出てきて、そのおじさん知ってる! 厳密過ぎて最後神に行き着く人! と楽しかった。真鶴の美意識の格好よさにしびれる。こんないい町があったなんて。行ってみたい。


やっぱり日々の生活のビルド、実践こそが希望よな、希望というか、わりとダメな状況のなかでそれでも腐らずに自分のごきげんを取る数少ない手段よな、という気持ちで、日々のアナキズムの実践に関する断章にそのまま戻ってもよかったが時間が半端だったので『自由論』のまえがきだけ読んでみようと開くとこれまたよくて、ちょうど気分が連続していく。

 

(…)端緒の発想は単純なものである。外から押しつけられた力にわけもわからず転がされ右往左往する、といった事態はやっぱりいやだ、というものだ(転がされるにしても少しは転がされる意味がわかっていたほうがいい)。いまわたしたちの身体をどのような力が貫いているのだろうか、わたしたちの身体はどのように変容を遂げようとしているのか? きっと巨大で複雑な力の編成の変容が、現代のわたしたちの高まりつつある不安や恐怖を貫いているだろう。スピノザの言葉を借りれば、わたしたちの身体はひたすら「悲しみの受動的感情」にとりつかれてしまっているのだ。もしかしたら現在の権力が、こうした不安や恐怖を例外的な状況のもとでの非常手段として活用しているのではなく、みずからの作動に必須の不断の動力として必要としているとしたらどうだろうか(たとえば「明日をも知れぬ失業者」といった不安や恐怖がもはや不況期に特有のものではなく、現代の労働の不断の動力になっていることはもはやたいがいの人は身体的に理解できるだろう)。もちろん近代の権力はもともと悲しみの受動的感情を通して次のような支配のジレンマを回避してきた。つまり個々人や集団の「諸能力」を増進させながら、それを他者への従属(権力)とむすびつけねばならない、というジレンマである。個々人や集団の諸能力の増進は、この悲しみの受動的感情 ──そこでは個々の人びとはこう考えるのだ。わたしにはこれ(とあれ)ぐらいしかない、この「日常」を受け入れるしかない、しょせんやれるのはここまでだ── を介して、むしろ他者への従属の強化をもたらすのである。だが現代において、序章でみるように、かつてなく個人や集団は諸能力の増進を求められているし、またそれによって高められた能力は権力のコマンドを超えて他者への従属を断ち切る潜在性を高めている。その一方で、そんな高められた能力はかつてないほど他者への従属へと流し込まれているのである。おそらく不安と恐怖が巨大な力となってわたしたちの日常を支配するのは、その権力の働きのきわどさのあらわれでもあるだろう。

酒井隆史『自由論』(河出文庫) p.12-13


高めた能力や磨いた工夫を、ほかでもない「自分の快適や充実を、ない場所に作りだすこと」に使うこと。利己心の潔癖な忌避は、セルフネグレクトでしかない。まずは自分のフィールドを構築することから。思いやりは余裕の副産物なのだから、自分が楽チンであればあるほど思いやりの質も高まっていく。