2019.12.11

『大聖堂』を読み終える。思ったより速く読んでしまった。あわてないつもりだったが、どうか。ゆっくりと読もうと意識するのもやっぱり違って、ちゃんと読みたいスピードで、読まれたいスピードで読めたと思う。表題作と、「ぼくが電話をかけている場所」「ささやかだけれど、役にたつこと」の三篇が飛びぬけていて、そう思って帯文やら解説を斜め読むとやはりそういう評価らしく、好悪ではなく、作品の出来不出来という点においてはそんなに大きく評価者ごとにブレはしないと思う。いいものはちゃんといいと言われている、そこはわりと素朴に信じている。でもあんまり皆が口をそろえていいというものは、もういいと言われているのだからわざわざ自分で読まなくてもいいかという気分になってしまう。今日までのカーヴァーも、これから読むルシア・ベルリンも、そうやって敬遠していた本だった。読めばやっぱりいいわけで、なので今はそういう、いいに決まりきっている、みたいな本を読む季節ということだった。これが読みたいという欲望は、いつだって自分の側にあるのがいい。いいと言われているものがいいに決まりきっているからといって、そういう本ばかり読むだけでも生活における可処分時間というのは絶対に足りないのだから、いい悪い以上に、まず自分が読みたいと欲望するものを読むというのがいちばんだった。それは分かりきったこととして前提したうえで、いまはいいと分かりきっているものを読みたい気分ということだった。いまは『富士日記』がプルーストに代わって日々の読書のリズムを作っているようで、ベケットが手に取られる気配はいよいよ弱まってきたが、いまだに僕は、次はベケットかな、という気持ちを維持し続けている。いつかは読むだろう。思えば『富士日記』も読んだらどうせ好きだからという理由で読まないできた。武田、カーヴァー、クソパンが昨日で、今日はカーヴァー、武田。明日からはルシア・ベルリン、武田となるのだろうか。庄野、武田も十分ありえた。プルーストが終わると毎日のように本が入れ替わるので、その入れ替わりを記述するだけで成り立ってしまうようで、ここ数日はすっかり読書日記めいている。ここで公開していたかつてのブログを読み返してみると、今の感じとそこまで大して変わっていないようで、しかしやっぱり今の自分とは明らかな乖離がある。いまのほうが好きだ、と大体いつでも思う。