2019.12.20

東京堂書店で手に取ったみすずの『自己責任の時代』は序文で自ら晦渋と宣言していてひるんだが、面白く読めている。主義思想、経済活動、ジェンダー、表現、生死、あらゆることが個人の自由であるとして権利が万人にフラットに付与されていくことと、あらゆるセーフティネットが自己責任の名のもとに切り捨てられていくこととは、同じ流れに属していると感じていて、前者は当然そうなったほうがいいよね大歓迎というものだが、後者についてはかなりの疑問がある、どうにか分けて考えられないだろうか、そういうことを考える取っ掛かりが書かれているようだった。ひとりひとりのパーソナルな自由って、苛烈な自己責任的主体像を前提としなければ実現できないようなものなんだっけ。いつから責任って、他者に対する義務でなく、自助努力の必要にすり替わっていったんだろう。そういうことを考えながら、荒木優太の「日本のプラグマティズム」の可謬主義だとか、北欧のどっかの国では社会福祉を表す言葉には〈痛みの分有〉みたいな原義があるという話だとかを思い起こしていた。一人一人が各々の考える最高を目指して実践していく権利を保障することと、一人一人のサバイブを保証することとは分けて考えたほうがよくないか、というのが、三分の一も読まないうちに僕が考えていることだが、これは読む前からの問題意識を引きずっているだけでもある、読了後の僕には何が見えているだろう。


増刷分の刷り上がりと発送の連絡が今日は来るはずで、そわそわと待ちつつ、仕事はそれどころではないほどに逼迫してきたのでちょうどよく気が紛れた。しかし結局今日は連絡が来ないみたいで、配送伝票番号の連携の兼ね合いで翌日の連絡になりうるというのは事前に説明があってしかしやきもきする。好きな書店への営業メールも送り始めていて、返事来るかな、どうだろうな、とこちらはわりと静かな気持ちで待っている。これは来なかったら来なかったで、直接出向いて話だけでもできたらいいなと思っているし、とにかく僕は本を携えて書店を巡ることを楽しい遊びとして考えているようでだから成果は二の次だから気が楽なのかもしれない。そしてこの遊びのためには無事に刷り上がることが大前提で、だから増刷分の出来がなによりも気がかりで、他はそれからということなのだろう。いざ刷り上がったものが到着したら、今度は返事の有無にやきもきしだすのかもしれない。


ここまで書いていたら発送完了メールが来た! 日曜のうちに受け取れたらいいな、と思う。ヤマトのWEBで配送状況の確認ができるようになるのはまだしばらくかかりそうだった。


家に帰ればパーティーだった。